05/12/24

日本全国クリスマスらしい。クリスマスソングと言えば、やはり賛美歌だろう。

子供の頃は賛美歌の歌詞の意味がよくわからなかった。「きよしこの夜」の「きよし」とは、多分どこかのきよし君のことを歌っているんだろうな、と思っていた。自分の中ではなぜか前川清にイメージを重ねていた。賛美歌のおごそかな雰囲気と前川清の無表情な感じとが微妙にマッチしていたからだと思う。

歌詞の最後の「夢やすく」の意味もよくわからなかった。多分「夢安く」なんだろうと思っていた。せっかくのクリスマスだというのに安い夢を見るなんて、きよし君はケチだな、どうせならプレゼントをいっぱいもらう夢でもみればいいのに、などと勝手に思っていた。

灯りを消して家族でケーキを囲み、頭の中ではそんなことを考えながら賛美歌を歌っていた。子供の頃の自分にとって、クリスマスはケーキが食べられる特別な日だった。今でこそ甘いものは大嫌いな自分だが、子供の頃は当然ながら甘いものが大好きだった。

ただし、ケーキにたどり着く前に避けて通れない関門があった。それは通信簿である。いつも決まってクリスマスと終業式が重なるため、夕食を前に通信簿を父親に見せなければならないのだ。成績がよければ問題ないのだが、悪い場合が困る。

自分にとって父親は今も昔も怖い存在で、子供の頃からよく叱られた。特に成績のことでは厳しかった。自分の息子が他人に負けることが悔しかったらしい。いや、そんなこと言ったって、あなたの息子だからそりゃしかたないって。

そんなこんなで、ケーキは楽しみだけど通信簿を見せるのが怖いということで、子供の頃のクリスマスはやたらと緊張していた思い出がある。きよし君みたいに安い夢を見るような心境ではなかったことが懐かしく思い出される今日この頃。



05/12/18

またまた宝くじネタで恐縮だが、生まれて初めて「西銀座チャンスセンター」の宝くじ売り場の行列をこの目で見た。

それにしてもすごい行列だ。何度かテレビで見たことはあったが、実際の行列を自分の目で見ると、やはり驚く。行列は一つではなく、いくつかの列ができていたので、近くにいた警備員に訊いてみた。

「あの、これはどういうシステムになっているんですか」「窓口別に列を作っていますから、お好きな窓口に並んでください」「はあ、するとこの一番長い列は何番窓口になるんですか」「こちらは1番窓口で、現在1時間半待ちです。一番奥の窓口が一番空いています」

いやはや、驚いた。この寒空に1時間半もの時間をかけて宝くじを買う人間がこれほど多く存在するとは、思いもしなかった。この売り場は日本一の当選本数を誇っているらしいが、それは単純に販売枚数が多いからだろう。これまでの販売枚数と当選本数を計算すれば、統計上の確率を大きく上回るような特異性は見つからないはずだ。ましてや、売り場窓口の差などあろうはずがない。

それでも、人々は西銀座チャンスセンターを目指す。地方にいて東京まで買いに来られない人たちの中には、代行業者に依頼してこの売り場の宝くじを買う人までいるらしい。すごいエネルギーだ。

たしかに、1,000万枚販売して1本しか当選の出ない売り場と、1億枚販売して10本の当選が出る売り場を比較した場合、当選確率は同じだとしても、後者の売り場で買いたいというのは心情的に理解できる。しかし、寒空の下を1時間以上も待って買う価値があるとは思えない。どうせならもっと別のことにエネルギーを注ぎたい。

売り場の近くに設けられた閑散とした献血センターが悲しかった。



05/12/11

さりげなく宝くじを買った。買った瞬間に当たりを確信した。これで自分も億万長者の仲間入りである。

相方いわく、「男の人って、どうして当たらないとわかっているものに無駄なお金を使うのか、よくわからない」らしい。いや、自分だって当たると思って買っているわけではない。ただ、当たらないとも限らない。もしも当たったらすごいことだ。つまり、これは壮大な男のロマンなのだ。

自分に言わせれば、「いつか白馬に乗った王子様が私の前に現れるはず」などとたわごとをのたまう夢見る少女のままな女子だって多い。結局現れたのは、白馬に乗った王子様ならぬ中古の軽自動車に乗ったさえない男子だったりするからお互いさまだ。

それはともかく、自分だって、宝くじならなんでも買うわけではない。買うのは年末ジャンボのみと決めている。なぜならば、年末というのは夢を見るにはうってつけの時期だと思うからだ。

クリスマスと正月を目前にした街は、一年で一番華やかに、そしてにぎやかになる。誰もがちょっと浮かれ気分になる。今年はあまりいいことはなかったけれど、来年はいいことがあるかもしれない。そんな根拠のない期待を誰もが抱くのが、この年末という時期なのだ。

この浮かれ気分の時期に宝くじを買うことで、さらにもう少しだけ浮かれ気分になれる。当選番号が発表されるまでのわずかな間だが、誰もが平等に億万長者の夢を見ることができる。億万長者の夢を見る権利を買ったと考えれば安いものだ。

いかに幸せな夢を見られるか、それが宝くじを買う際に求められる才能だと思う。どうせ買うなら思い切り幸せな夢を見たい。無駄な支出に終わるのか、それとも思い切り幸せな気分に浸るのかはその人次第だ。



05/12/04

最近気付いたのだが、自分はどうも犬に嫌われているらしい。

というのも、犬にやたらと吠えられるのだ。散歩中の犬や、犬小屋で寝そべっている犬にやたらと吠えられる。自分が何をしたわけでもないのに、いきなり敵意をむき出しにして吠えてくるのだ。こういう犬はすべての通行人に対して吠えているのかと思って観察してみると、そういうわけでもない。やはり自分に対してだけ吠えているようなのだ。

以前などは、散歩中の犬がいきなり腕に噛み付いてきたことがあった。このときは真冬で皮のコートを着ていたからよかったが、これが薄着の季節だったら大けがをしていたところだ。いったい自分の何が犬の敵意を駆り立てるのだろうか。

もしかしたら自分は猿だと思われているのかもしれない。「犬猿の仲」というくらいだから、犬にとって猿は最大の敵であるはずだ。とはいえ、自分のどこが猿っぽいのかよくわからない。犬よりは猿に似ていると言えなくもないが、自分よりも猿っぽい人間は他にいくらでもいる。

自分で考えてもよくわからないので、相方に訊いてみた。自分では気付かないような鋭い答えが返ってくることがままあるので、結構頼りになるのだ。

「犬だって馬鹿じゃないから、ちゃんと相手を見て吠えてるんだよ」「つまりそれは、犬からは同レベルに見られてるってこと?」「これなら勝てる、って思って向こうは吠えているわけだから、同レベルではないと思うけど」「なるほど、つまり自分は犬以下ってことか」

さすがに相方だ。期待にたがわぬ鋭い答えが返ってきた。鋭すぎてなんだか嫌になってきた。早く人間になりたい。



05/11/27

今年もそろそろ年末ジャンボの季節らしい。社会人になってから毎年欠かさず購入している年末ジャンボだが、今年は作戦を変更しようと思っている。名づけて「さりげなく作戦」だ。

毎年必ず何本かの宝くじが未換金になるが、これこそが当たる秘訣ではないのかと最近になって気付いた。つまり、当てようと意気込んで買うのではなく、なんとなく買って気付いたら当たっていた、というさりげない姿勢こそがベストではないかと思うのだ。

どこそこの売り場の何番窓口に朝早くから並んで買う、なんていうのは絶対に当たらない。散歩の途中でたまたま宝くじ売り場を見つけてたまたま財布の中にあったお金で買う、といったさりげなさが大事だ。

買ってからの姿勢も重要だ。宝くじを神棚に祭ったり、お守りと一緒にタンスの奥深くにしまったり、なんていうのはダメだ。無造作にテーブルの上に置いたり、カバンの中に入れっぱなしだったり、といったさりげなさが大事だ。どこにしまったか思い出せない、というくらいがベストだ。

当選番号の発表のときも、わざわざ抽選会場にまで足を運んだり、テレビの速報をチェックしたり、なんていうのは浅ましい。宝くじを買ったこと自体をすっかり忘れるというさりげなさがほしい。年末に未換金のニュースを見て思い出すくらいがちょうどいい。

こうしてめでたく当選した後の姿勢も重要だ。家を買ったり、脱サラして起業したり、といったお金の使い方はみっともない。とりあえず換金はしたものの、使いみちも考えないうちにお金の存在自体を忘れてしまうくらいのさりげなさが素敵だ。

今年はこの作戦をさりげなく実行するつもりだ。さりげなさを意識して行動する時点ですでにさりげなくないじゃん、という当然の突っ込みはあえて無視したい。



05/11/20

何気なくテレビを見ていたら、なにやらドラフト会議のニュースが流れていた。よく見ると、四国アイランドリーグからプロ野球選手を目指す若い男子のドキュメンタリーらしい。

石毛宏典氏が立ち上げたこのリーグの趣旨は、「プロを目指す若者にチャンスを与える場にしたい」というものらしい。つまり、プロ球団のドラフトや入団テストにひっかからなかった人たちにこのリーグでプレーさせて、スカウトの目にとまるような活躍をしてもらいたい、ということか。

なるほど、立派な趣旨だと思う。立派だとは思うけれど、現実問題としてはどうなんだろう。実際には若者の将来を制限してしまうことにはならないか。

たとえば大学を卒業して23歳で四国アイランドリーグに入団し、5年間プロを目指して頑張ったが、結局は夢がかなわなかったとしよう。残された選択肢として、当然どこかの企業に就職することになるだろうが、はたしてまともな就職先があるかどうか。

30歳目前にして何の職歴もない人間を雇う企業が多いとは思えない。あったとしても、年齢に見合うだけの待遇は期待できないだろう。年下の人間にあごで使われることもあるだろう。大いにプライドも傷つくだろう。

こういう人たちは、野球で挫折し、さらにその後の社会生活でも挫折を味わう可能性が極めて高いと思う。今年のドラフト会議では四国アイランドリーグからは一人も指名されなかったという事実が、その可能性を裏付けている。

若者にチャンスを与えるのは大いに結構。だが、そのチャンスの割にリスクがあまりにも大きすぎる。使えるかどうかもわからない才能を無理に拾い上げようとして、前途ある若者の人生を狂わせるのは罪なことだと思う。



05/11/13

秋も深まってきたので、「うつ病危険度」をチェックしてみた。

相方からは「うつ病から一番遠いタイプの人間」という評価を受けているが、自分としてはいまひとつ納得できていない。以前にも書いたように、自分は気が弱くてプレッシャーにも極端に弱いのだ。おまけに足も臭いわけだ。まさに人間失格なわけだ。生まれてすみません。こんな人間がうつ病から一番遠いわけがない。

診断結果は10608人中251位の77点で、「おそらく、うつ病にはならないでしょう」というものだった。うーん、やっぱりそうなのか。うつ病になりにくいタイプの人間だということがわかったのは嬉しいが、ちょっと複雑な心境でもある。

この診断で「うつ病になりにくい」という結果が出た人は、極めていい加減で自分勝手な人間だろう。もし満点をたたき出した人がいるとすれば、それは喜ぶべきことではなく、ただひたすらにこれまでの自分の人生を反省すべきだと思う。

ということは、自分は気が弱くていい加減な人間だということだ。これは喜んでいる場合ではないだろう。小心者でいい加減というのは、激しく人間的魅力に欠けはしないか。自分だったらこんな人間とは友達になりたくはない。なるほど、だから自分には友達が少ないのか。今さらながら納得した。

同じいい加減でも、豪快でおおらかな人間だったら話は別だ。これはこれで愛すべき人間だと思う。深いつきあいでなければ、友達になってもいいと思う。

この診断で自分と同じように「うつ病にはならないでしょう」という結果が出たそこのあなた。喜んでいる場合ではない。これまでのいい加減さと自分勝手さを反省して、自分の人生を振り返るきっかけにしてほしい。



05/11/06

久しぶりに横浜を歩いてみた。

千葉から横浜は若干遠いこともあり、そうそう気軽に出かけられる街ではないのだが、大の横浜好きである相方に誘われてぶらりと歩いてみた。久しぶりに週末が晴れに恵まれて、歩いていてもなんとも気持ちいい。

中華街でお昼を食べ、元町をぶらつき、山手の洋館を見学し、港の見える丘公園と山下公園をハシゴし、シーバスに乗って潮風にあたり、みなとみらいの夜景を楽しみながら帰路に着いた。かなりベタなコースだと思うが、こういうベタなコースでも充分に楽しめるところが横浜の魅力だろう。

このように見所いっぱいの横浜であるが、もう一つの隠れた名所を忘れてはいけない。それは「横浜の陰」とでも言うべき寿町である。東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並ぶ日本三大ドヤ街の一つだ。ドヤ街とはつまり、日雇い労働者が集まるスラム街とでも考えればいいだろう。

この街の雰囲気はとにかく沈んでいて、およそ活気というものが感じられない。この街に住む人たちの体臭を吸い込んでか、空気自体がよどんでいるように感じる。というか、実際にちょっとすえた臭いが街全体に漂っている。

こういうスラム街が、石川町の駅をはさんで華やかな中華街の目と鼻の先にあるのだ。おしゃれな元町や山手の高級住宅街からも当然近い。誰もがあこがれるおしゃれな横浜という街に、こういうスラム街がポツンと存在するところが非常に面白い。こうした光と陰にちょっとした男のロマンを感じるわけだ。

ということで、寿町にも寄っていこうと提案したら、「自分一人で行ってきたら」と、相方からはあっさり却下されてしまった。どうも相方には男のロマンが理解できないらしい。困ったもんだ。



05/10/30

近所にある1,000円ポッキリのカット専門店で髪を切った。

今まで店の前を通るたびに気になっていたのだが、いまひとつドアを開ける勇気がなかった。なにせカットが1,000円ポッキリである。看板を信じて入ったら、頼みもしないのにいきなり若い女子が何人も周りに集まって、飲めや歌えのドンチャン騒ぎの後で、パンチパーマのヤクザが出てきて法外な料金を請求されるのではないかと心配だったのだ。

なにはともあれ話のネタにと、おどおどしながら店に入ってみた。店に入ると、まずは入り口のカウンターに置かれた券売機でチケットを買い、自分が呼ばれるまで椅子に座って待つ。

呼ばれたらチケットを店員に渡す。どれくらい切るかと訊かれ、えっと、3インチほど、じゃなくて3センチほど、と緊張しながら答える。店員は霧吹きで申し訳程度に髪を濡らし、黙々とカット作業を始める。

一通りカット作業を終えると、合わせ鏡で後頭部の具合を映して申し訳程度に確認を取る。その後、壁に取り付けられた掃除機みたいなホースを髪全体に当てて細かい髪の毛を吸い取る。最後に「これで顔を拭いて」と、紙のおしぼりを手渡されて終了。全工程わずか10分である。

想像以上に殺伐とした雰囲気で、ちょっとだけ引いた。まあ、1,000円ポッキリではこれが正しいサービスのあり方なのだろう。カットの最中に無駄な世間話をしなくても済むというのは、自分にとってはありがたかった。

しかし、さすがに紙おしぼりを渡されたときには悲しくなった。その紙おしぼりで条件反射的に顔を拭いている自分に気づいたときにはもっと悲しくなった。目尻の涙をそっと拭きながら、こんな店もう二度と来るもんかと固く心に誓った38歳の秋。



05/10/22

浅草で蕎麦を食べていたときのこと。

板わさをつまみにビールを飲みながら蕎麦を待っていると、横に座っていた相方が小声で話しかけてきた。「ねえ、向こうのテーブルに座ってるのって、王監督じゃない?」視線を斜め向かいのテーブルに移すと、そこではたしかに王監督が蕎麦を食べていた。

おお、世界の王が自分の目と鼻の先で蕎麦をすすっているではないか。子供の頃、テレビで見てあこがれた世界のホームラン王ではないか。いかんいかん、のんびりと蕎麦なんて待っている場合じゃない。とりあえずサインをもらって握手をしてもらわないと。なにか色紙の代わりになるものはないか。ペンは持っていたただろうか。

なんて舞い上がることもなく、本当だ、王監督だね、と相方に返事をして、また板わさに箸を伸ばした。自分に限らず、東京で有名人に遭遇した場合の反応は大方こんなものであると思う。その証拠に、周りの客も気づいていながら気づいていない素振りをしていた。

良くも悪くも、こうしたドライさが東京人の特徴である。他人のことに干渉しない形での心遣いをスマートに表現できるのが東京人だと思う。これが田舎だったら、あるいは大阪だったら、周りの反応はまったく違ったものになっていたはずだ。自分が東京人であることを嬉しく思うのはこんなときだ。いや、正確には千葉人だが、細かいことは気にしなくてよろしい。

蕎麦を食べ終えて立ち上がった王監督はやっぱり大きかった。子供の頃にあこがれた世界のホームラン王がそこにはいた。王監督、やっぱりナボナはお菓子のホームラン王ですよね。心の中でそうつぶやいてみた。

しかし、王監督の着ていたダブルのスーツの前が開いていたことが気になった。世界の王たるもの、やはりダブルのスーツの前はちゃんと閉じて着てもらいたい。



05/10/15

こそっと禁煙してみた。

咳が止まらずに健康の危機を感じたとか、毎日かかるタバコ代に家計の危機を感じたという切迫した理由ではなく、本当になんとなく禁煙してみようかと思ったのだ。そもそも自分は1日2本というライトスモーカーである。今までに禁煙しようと思ったことすらなかった。

きっかけは、今話題になっているらしい「禁煙セラピー」という本の存在をネットで知ったことにある。なんでも「読むだけで絶対にやめられる」らしい。そんなバカな、と思ったが、実際に何人ものヘビースモーカーが「読むだけでやめられた」という体験談をネットで紹介している。眉にツバをつけながら書店でパラパラと立ち読みをしてみた。

ザッと目を通しただけなのでなんとも言えないが、少なくとも読んで損をする本ではないと思った。びっくりするようなマジックが隠されているわけではなく、ごく当たり前のことを何度も繰り返しわかりやすく書いてある、といった内容だ。

しかし、この当たり前のこと、つまりタバコには百害あって一利なし、という事実に改めて気づかされたという意味では非常によくできた本だと思う。結局自分はこれまで何のためにタバコを吸っていたのだろう、と考えさせられたのである。

今まで禁煙しようと思ったことすらなかった、と上には書いたが、こういう本を読んでみようと思ったこと自体が心のどこかで禁煙したいと願っていた証拠だろう。おそらく、喫煙者のほとんどすべてが「やめられるものならやめたい」と思っているのではないか。

自分のようなライトスモーカーよりも、一日に何十本も吸うようなヘビースモーカーが読んだ方が効果は高いと思う。読むだけでやめられるかどうかはともかく、まずは読むだけでも読んでみることをお勧めしたい。



05/10/08

店で食事をするときに気になることが二つある。それはタバコと携帯だ。

ラーメン屋のカウンターなどでタバコを吸うのは論外。こういう非常識な人間が自分の隣に座ったら、タバコは勘弁してください、とすかさず注意する。ただし、相手がパンチパーマをかけていたり、つま先のとがった白のエナメルの靴を履いていたり、二の腕に刺青が入っていたりする場合は、おとなしくラーメンと一緒にタバコの煙を吸い込むことにしている。

しかし、最近では禁煙の店も増えてきた。全面禁煙までいかずとも、ランチタイムに限り禁煙という店もあるし、禁煙席と喫煙席がきっちりと分かれている店もある。飲食店の禁煙化・分煙化の流れはこれからも一層広まっていくだろう。いい傾向だ。

タバコの場合は注意できるからまだいいのだが、困るのが携帯だ。静かな図書館で携帯を使っている場合は注意しやすいのだが、飲食店での携帯というのはどうしたらいいものか、判断に悩む。自分の隣で携帯で話されるのはかなり気になるものだ。

気になると言えば、携帯の画面を見ながら食べている人もかなり気になる。携帯を片手に持ちながら視線を画面に落とし、時々思い出したようにラーメンを一口二口すすっては、また視線を携帯の画面に戻し、せわしなく親指でボタンをプッシュする。自分の隣にこういう人が座ると、なんだか居心地が悪くてしかたがない。

早く食べないとせっかくのラーメンが冷めて伸びるじゃん、などと考えてしまって落ち着かないのである。食事のときくらい携帯をしまえばいいのに、と思うのだが、いつも携帯を握り締めていないと落ち着かない身体になってしまっているのだろうか。

こういう人たちは携帯電話依存症なのかもしれない。薬物やアルコールの依存症に比べればはるかにマシだが、はたから見てあまりカッコいいもんじゃない。せめて食事中くらいは携帯から離れたらどうかね。



05/10/02

快晴の空に誘われて、ディズニーランドなんぞに行ってみた。

自分がディズニーランドに行ったという話をすると、周りの人間からは「へえ、永橋さんもディズニーランドなんかに行ったりするんですか」と、さも意外そうな反応が返ってくる。何を隠そう、自分は意外とディズニーファンなのだ。園内ではミッキーのカチューシャをつけてはじけたりもする。って、さすがにそれはない。

園内の飾りつけもホーンテッド・マンションの幽霊たちも、ハロウィーンバージョンで素敵だった。あまりの素敵さに思わずミッキーのカチューシャを買ってはじけてしまった。いや、さすがにそれはない。

ディズニーの後は近場でまったりしようと、翌日は近所の動物公園にレッサーパンダの風太くんを見に行った。一時のブームはどこへやら、柵の前には控えめな人だかりしかできていなかったが、まるでぬいぐるみみたいな風太くんはなかなか愛らしかった。

ディズニーランドと千葉市動物公園、場所は変われど人は変わらずで、若い女子がやたらとうるさい。バカの一つ覚えみたいに、何を見ても「チョーかわいくない?」を連発するのだ。

ハロウィーンのカボチャも、ホーンテッドマンションの幽霊も、レッサーパンダの風太くんも、すべて「チョーかわいい」の一言で済ませてしまう彼女たちの感覚は一体どうなっているのだろうか。もう少し他の言葉も使う努力をしないと、50年後も杖をつきながら「チョーかわいい」以外の言葉が出なくなってしまうのではないかと心配だ。

なんて話はともかく、自分としてはハロウィーンのカボチャよりもレッサーパンダの風太くんよりも、地味なアカハナグマの方がチョーかわいかった。千葉市動物公園にお出かけの際には、ぜひともチェックを。



05/09/24

このたび、ようやく奨学金を完済した。

高校生のときに月額8,000円、大学生のときには月額41,000円の奨学金を借りていたから、返済総額は2,256,000円になる。大学を卒業したばかりの世間知らずの青二才が、いきなり200万円を超える借金を背負って社会人デビューしたわけだ。今から考えると、これはかなりのビッグマネーだ。

いつかやつらの足元にビッグマネー叩きつけてやる(by 浜田省吾)、と決意した若き日の自分はもうなく、気がついたら郵便局の窓口で粛々と最後の返済金を支払う自分がいた。長かったようで短かったような、短かったようで長かったような返済期間だった。

しかし借金とは言っても、無利子で16年もの返済期間があるわけだから、借金とも言えないくらいに有利な条件だ。なのに最近では奨学金を返済しない人が増えて、奨学金制度の維持が困難になっているという話を聞く。

昨今の不景気のせいで会社をクビになったり、学校は卒業したものの就職先が見つからずニートになったり、といった人たちの増加が一番の原因だろう。しかし、返せるだけの余裕はあるのにわざと返さない人も少なからずいると思う。サラ金なら返すが奨学金なら返さなくとも平気だ、くらいに思っているのだろう。

こういう人間は自分のことしか考えていないから困る。自分が払わないことで他人に迷惑をかけているということに気づかないバカがあまりにも多い。年金未納問題にしても同じことだ。払わなければ自分が将来年金を受け取れなくなるだけのことで他人には迷惑をかけていない、と考えている人はもう少し社会の仕組みを勉強しなさい。

借りたものは何があってもキッチリと返すのが当然のルールだ。たとえそれが借金であっても、やつらの足元にビッグマネーを叩きつけてやるのは気分がスッキリするものだ。



05/09/18

電車内での痴漢行為は年々増加傾向にあるらしい。

女子に「痴漢に遭ったことある?」と訊くと、必ず「ある」という答えが返ってくる。これまでの自分の聴き取り調査の結果では、世の中の100%の女子が痴漢の被害に遭っていることになる。逆に男子の聴き取り調査では、痴漢行為を認めたのはわずか10%にも満たない。

この数字はどう考えればいいのか。女子が見栄を張って痴漢に遭ったと嘘をついているのか、あるいは男子が自分の行為に後ろめたさを感じて嘘をついているのか、はたまた一人の男子が複数の女子に対して痴漢行為を働いているのか。おそらくはこれらの要素がすべて絡み合って、こうした数字になっているのだろう。

自分は痴漢をしたいとは思わないが、痴漢の現場を目撃してみたいとは思う。これまでの38年間の人生において、痴漢の現場を目撃したことはただの一度もないのだ。

目撃したらどうするか。もちろん痴漢をつかまえて鉄道警察につきだすのだ。当然被害者の女子には感謝されるだろう。ぜひお礼をさせてください、などと言われて、いやいや当然のことをしたまでですよ、なんて言いながらちゃっかり食事なんかしたりするわけだ。その後のことはなるようになれ。

なんてことを昔から夢想しているのだが、いまだに実現しないままだ。自分のこの夢を相方に熱く語ったところ、バカじゃないの、と鼻で笑われた。どうも相方には男のロマンが理解できないらしい。困ったもんだ。

しかし、もし痴漢の現場に遭遇したとして、自分の好みではない女子だったらどうするか、という問題がある。そのまま見過ごすことは人間としてどうかと思うし、かといって長年の夢を不本意な形で実現させることもしたくない。なんとも悩ましい問題だ。



05/09/03

選挙が近づいてくるにつれ、テレビでも街頭インタビューの映像が多く流れるようになってきた。

こういうインタビュー映像を見ていつも思うことなのだが、有権者のなんと自分勝手なことか。農家の人にインタビューすれば「政治家は我々農家のことをまったく考えてくれない」とか、サラリーマンにインタビューすれば「我々サラリーマンのことをまったく考えてくれない」とか、自営業者にインタビューすれば「我々自営業者のことを」といった答えが判を押したように返ってくる。

「自分たちのことをまったく考えてくれない」という人たちこそ、自分のことしか考えていない。「自分たちのことをまったく考えてくれない」というのは、裏を返せば「自分たちのことだけ考えてくれればいい」ということだ。いい歳した大人がよくも恥ずかしくないものだ。

とは言うものの、人間はみんな自分が一番かわいい。当たり前だ。だからこういうことを言う人たちは間違ってはいない。それを人前で発言できるだけの厚顔さを持ちあわせているかどうかだけの問題だ。

本当に問題なのは、実現不可能な理想論を述べる左寄りの政治家だ。増税反対、大いに結構。だが、現状では明らかに足りない財源をどこに求めるのか。憲法改正反対、大いに結構。だが、今の国際社会でこの憲法のままやっていけると本気で思っているのか。

こういう政治家たちは、万年野党として活動してきているから、発言も極めて無責任だ。与党の政策にいちいち反対するだけが仕事のこの政治家たちが実際に政権を獲ったとしても、こんな中身のない政策なんて実現できるわけがない。

みんな平等に幸せに、なんて理想論だけで飯は食えない。理想論をぶち上げるなら、誰もが納得する実現方法を一緒に提示する必要がある。しかし実際には、理想論だけをぶち上げて飯を食っている政治家がいるわけだから、やっぱり日本は豊かな国だ。



05/08/28

汗だくになりながら窓ガラスを拭いた。

夏の昼下がりに南西に面した部屋のバルコニーに出て窓ガラスを拭くのはやめた方がいいと激しく思った。なにしろ、生命の危険を感じるくらいに暑い。しかし困ったことに、一度やり始めるとピカピカになるまでやらないと気がすまないのが窓ガラス磨きというものである。

外側を拭いてから内側を拭くと、さっきは気づかなかった外側の拭き残しが目につく。それでもう一度外側を拭きなおすと、今度は内側の拭き残しが目につく。それでもう一度内側を拭きなおす、ということを何度も繰り返す羽目になる。

汗を拭きつつ窓を拭きながらふと思った。人間の場合も同じではないかと。

勉強でもスポーツでも仕事でも、自分を磨けば磨くほど相手の粗が目立ってくるようになるのではないか。自分の能力が上がってくるにつれ、相手の能力の足りなさが嫌でも見えてくるのではないか。

仕事でも何でも、自己研鑽などせず適当に力を抜きながらやっていれば、相手のことも気にならない。下手に努力をするからこそ、見える必要もない相手の粗が見えてきて、要らぬ衝突なども招いてしまうのだ。すべて適当にダラダラとやっていれば、世の中はすべからく丸く収まるのである。

ってことで、これからは窓ガラスを拭くのもやめたい。汗をダラダラ流して生命の危機を感じながら際限なく窓ガラスを拭くよりも、多少の汚れには目をつぶって心穏やかに過ごした方がずっと健康的だとは思わないかね、諸君。



8 月 20 日 晴れ

夕食が終わってみんなでテレビのニュースを見ていたときのことです。

「服を買うゆうせん順位は家ぞくで決まっていて、子ども、お母さん、ペット、お父さんの順だそうです」。なんのニュースか忘れたけど、アナウンサーはだいたいこんな感じのことを言っていました。

それを見ていたお父さんが、「そうか、ペット以下なのか」とポツリとつぶやきました。ひざの上にかかえた猫のミーシャをなでるお父さんの目がぬれているように見えたのは、ぼくの気のせいでしょうか。

「あら、そんなことないわよ。この前だってクール・ビズ用に新しいシャツとチノパンを買ってあげたじゃないの」とお母さんは言いました。でも、いっしょに買い物に行ったぼくは知っています。そのときにお母さんはその3倍も自分の服を買ったことを。そしてぼくは、「アイスを買ってあげるからお父さんにはないしょね」と、あっさりばいしゅうされてしまったのです。ごめんなさい、お父さん。

「だけど、その前に服を買ったのはもう3年も前じゃないか。そうだ、ミーシャを飼うようになってからおれは一枚も服を買ってないんだぞ」。そう言いながらミーシャをなでるお父さんの手がふるえているように見えたのは、ぼくの気のせいでしょうか。

このときからお父さんはミーシャをあまりかわいがらなくなりました。ご飯のあとはいつもミーシャをひざの上にかかえてテレビを見ていたのに、このごろではミーシャのかわりに自分のひざをかかえています。なんだかびんぼうくさくていやです。

お父さん、お願いだからミーシャをライバルだと思うのはやめてください。ペットがライバルだなんて、あまりにも悲しすぎます。



8 月 13 日 くもり

しゅうぎ院が解散して総せんきょになるそうです。

あ、ぼくの名前は新吾といいます。4年生です。近所に同じ名前のおじさんが住んでいて、この人はホームページをもっているらしいのですが、毎年夏休みになると「毎日暑くていいネタがうかばない」と言っては、ぼくの日記帳からネタをもっていってしまいます。小学生にネタをたよるくらいならホームページなんてやらなければいいのにといつも思います。やれやれ。

どうして総せんきょをするのかお父さんにきいたら、「小泉さんがわがままだからだよ。かめいさんにはがんばってもらいたいな」と言いました。それを聞いたお母さんは「かめいさんは顔が下品だからきらいよ。やっぱり小泉さんがいいわ」と言いました。ぼくはむずかしいことはよくわからないけど、なんだかおもしろくなりそうな悪寒がします。

「たとえばさ、クラス委員長の健太くんが、自分の思いどおりにならないからといって、自分の好きな人たちだけをあつめて新しくクラスをつくったらどう思う? そんなのわがままだと思うだろ? 小泉さんがやっているのはつまりそういうことなんだよ」

ぼくはちょっと考えました。健太くんは頭はよくないくせにケンカは強いので、ごういんに委員長になってしまったのです。まさにごういん矢のごとしです。健太くんと別のクラスになれるから、健太くんが新しいクラスをつくるのは大かんげいです。

ぼくがそう言うと、お父さんは「みんながそんな勝手なことをしたら、世の中はだめになるんだぞ。お父さんだって毎日いろんなことをがまんしてるんだ」と言いました。そう言ったお父さんの目がぬれているように見えたのは、ぼくの気のせいでしょうか。

お父さんの言うこともわかるけど、やっぱりぼくは小泉さんをおうえんします。がまんばかりしているお父さんはちっとも出世しないのに、やりたいことをやっている小泉さんはえらくなりました。ぼくも小泉さんみたいになりたいです。



05/08/07

どうやら「クール・ビズ」は定着してきているようだ。

いまだに大汗をかきながらドブネズミ色のスーツを着こんでいるサラリーマンも見かけるが、ノーネクタイで歩いているサラリーマンがだいぶ増えてきたように感じる。かく言う自分も、会社から「クール・ビズ」のお達しが出るや、これ幸いとばかりにネクタイを外した一人だ。

これは政府の戦略の勝利だろう。「クール・ビズ」というネーミングと、小泉総理のノーネクタイ姿が世の中に与えた「おしゃれ感」は小さくなかったように思う。これに比べてその昔大平総理が提案した「省エネルック」はあまりにも戦略がなかった。半袖スーツを着た大平さんの「省エネルック」姿はあまりにも貧乏臭かった。

夏はノーネクタイ、というのは大いに賛成し歓迎するが、自分にとってどうしても越えられない壁がある。それは「半袖シャツ」だ。

自分は半袖のワイシャツを1枚も持っていない。理由は簡単、嫌いだからだ。白くて細い貧弱な腕を出すという行為がどうしてもできない。なんだか自分がすごく弱そうに見えてしまう気がするのだ。通勤時のワイシャツだけでなく、プライベートな時間でも夏に着るのはもっぱら長袖のTシャツだ。

男子たるもの、一歩外に出たらそこには7人の敵がいるのだ。敵に弱みを見せたらいけない。長袖のシャツを着るのは、弱肉強食の社会を生き抜いていくための、いわば自己防衛作でもあるわけだ。

それにしても毎日暑い。思わず敵に弱みを見せたくなってしまう今日この頃。



05/07/30

小さなトラブルもあったが、スペースシャトルが無事に打ち上げられた。

スペースシャトルが国際宇宙ステーションとドッキングする映像をニュースで見ていたとき、相方が言った。「宇宙ステーションがすでにあるのに、わざわざスペースシャトルを打ち上げる意味があるのかなあ」

それはもちろん意味があるさ、と言いかけてはたと考え込んでしまった。たしかに言われてみればその通りだ。宇宙開発の実験が目的ならば、なにもスペースシャトルを打ち上げなくとも、安定した環境の宇宙ステーションで行えばいい話だ。コスト面から考えても、そちらの方がずっと安上がりだろう。

宇宙ステーションには乗組員が常時滞在しているのに、この人たちがまったく注目されず、思い出したように打ち上げられたスペースシャトルの乗組員ばかりがヒーロー扱いされるのもおかしい。宇宙の片隅でひっそりと地味に活動している人たちにこそ、もっとスポットライトを当てるべきではないのか。

さらに言うならば、スペースシャトルのクルーに与えられたミッションなんて、あまり意義のあるものとは思えない。なにを今さら、といったミッションばかりだ。

そうは思うものの、やっぱりこういう壮大なプロジェクトに男子は弱いのだ。自分も子供の頃は学校の図書室で「宇宙のふしぎ」とか、「惑星のひみつ」なんて本を目を輝かせながら読んでいた。ここで断言してもいい、男子は例外なく宇宙好きであると。

こんなことを考えた挙句に、「やっぱりさ、スペースシャトルって、男のロマンなんだよ」と自分が言うと、相方からは「ふーん、男のロマンって、なんだか無駄だね」という返事が返ってきた。痛い。

結論としては、「NASAの皆様、無駄なことは今すぐおやめなさい、と相方が申しております」ってことだ。



05/07/23

フジテレビの女子アナがジャニーズの男子タレントを呼び出して酒を飲んだ問題について。

フジテレビにはこれまでに1万件を優に超える抗議が殺到しているらしい。いや、なんだかもうわけがわからん。こういう人たちはどうして自分と関係のない赤の他人の出来事にこれほどまで熱くなれるのか。こういう人間が自分の周りにも大勢いるのかと思うと、ちょっとした恐怖すら感じる。

どうして菊間アナがここまで非難されるのか、実はよく理解できていない。呼び出したのは深夜だという話だから、当然プライベートな時間での出来事なわけだ。いくらアナウンサーだからといって、自分のプライベートのことまであれこれ言われるのはどうなんだろう。

一緒に酒を飲んだのが未成年だったということが非難の一番の理由になっているが、これだって特に目くじら立てるほどのものでもないだろう。未成年とはいえ立派な社会人だ。自分が稼いだ金で酒を飲んだって非難には当たらない。

結局のところ、女子アナのくせに売れっ子芸能人を呼び出すなんて何様のつもりだ、というのが菊間アナを非難する人たちの本音だろう。アナウンサーとしてのモラルがどうの、未成年に対する責任がどうのとわかったようなことを言っているが、本当はそんなこと思っちゃいない。

これがもし売れない芸能人相手だったら、ここまで話題にはならなかったはずだ。つまりは未成年のタレントが補導されたことなんかどうでもよくて、それをネタに女子アナを叩きたいだけのことなんだろう。

こういうくだらない芸能ネタは見ている分には確かに面白い。だけど、自分まで一緒になって熱くなるのはいかがなものか。女子アナとジャリタレのスキャンダルなんて刺身のツマにもなりゃしない。



05/07/17

マンションに住んでいると、住民同士の挨拶は欠かせない。

もちろん賃貸アパートの場合も挨拶は必要だが、分譲の場合は賃貸に比べて挨拶の重要度はさらに大きくなる。これから先長く住むことになるから、挨拶もせずに無愛想な態度ではいけない。挨拶ごときでせっかくの平和な生活に波風を立てては損というものだ。

しかし、いちいち迷ってしまうのが、「おはようございます」と「こんにちは」と「こんばんは」の使い分けだ。

平日の挨拶は特に迷うことはない。朝は「おはようございます」だし、夜は「こんばんは」で済む。昼間は会社にいるから「こんにちは」の必要はない。これが休日の挨拶となると少しばかりややこしくなる。

午前11:00〜11:30くらいに交わす言葉は「おはようございます」なのか「こんにちは」なのか悩む。時間的には「こんにちは」でいいかとも思うのだが、休日の場合は朝遅く起きることが多いから気分的には「おはようございます」の方が妥当かな、などと考えてしまうのだ。

今の時期だと、午後6:00〜6:30くらいの時間帯も微妙だ。「こんにちは」なのか「こんばんは」なのか、少しだけ考えてしまう。こんなことを考えているときに相手から「こんばんは」なんて声をかけられて「あ、こんにちは」と答えることがたまにある。言った後に間違いに気づき、ほんの少しだけ微妙に固まった空気を感じる。

こんなことをいちいち気にしてしまう自分って、なんて人間が小さいんだろうと思ってしまうが、実際に小さいんだからしようがない。これからもどんどんと小さくなっていこうと思う。



05/07/10

当たり前だが、コンビニやスーパーなどで買い物をすると、「ありがとうございました。またご利用くださいませ」と言われる。

近所の店でこれを言われる場合は気にもならないのだが、これが散歩の途中で立ち寄った店で言われた言葉だとすると、ちょっと微妙だ。おそらくはこれから先二度と立ち寄らないであろう店でこう言われると、「いや、もう利用することはないんだけどね」なんて、少しだけ恐縮してしまうのはきっと自分だけではないはずだ。いや、きっと自分だけだろうな。

考えてみると、「また」という言葉は少しだけ悲しい言葉だと思う。

たとえば、何年ぶりかで会った友人と別れるときに、「じゃあ、またな」などと軽く言って別れることがあるが、本当に「また」会うことは少ない気がする。「また」と言ったきり再会できていない友人や知人は、おそらく両手では数え切れない人数になるのではないだろうか。

「じゃあ、また」と言うときには、社交辞令の場合ももちろんあるが、大抵の場合は本気でまた会いたいと思って別れる。しかし、日々の生活に流されるうちに自然と疎遠になっていき、結局は「ヤツと会ってからもう何年経つかなあ」ということになってしまう。

もしかしたら、友人と交わす最後の言葉としては、「さよなら」よりも「また」の方が多いのかもしれない。「さよなら」は、これから先もう会うことはないとわかっている場合ならそんなに悲しくないが、「また」は、これから先も会いたいと思っている分だけ悲しい言葉だ。

そんなわけで、もう二度と立ち寄ることのない店で「またご利用くださいませ」なんて言われると、少しだけ恐縮して、少しだけ悲しくなるのだ。こんな自分って、変ですか?



05/07/02

「サラリーマン増税」が話題になっている。サラリーマンを狙い撃ちにしたかのような増税案で、世のサラリーマンからは不満の声が上がっているようだ。

彼らの言い分は、「サラリーマンは自営業者と違って、税金は天引きだから不公平だ。ただでさえ不公平なのに、この上税金を増やされるのはたまらない」といったところだろう。何を寝ぼけたことを言っているのか。確かに今の制度は不公平だ。ただし、サラリーマンにとってあまりにも有利な制度という意味で不公平なのだ。

「所得の約3割は必要経費として課税控除する」という制度を、いったいどれくらいのサラリーマンが理解しているのか、はなはだ疑問だ。例えば、年収500万のサラリーマンの場合、約150万は経費としてあらかじめ認められているということだ。

サラリーマンの必要経費なんて、収入の3割どころか、おそらく1割にも満たないのが現実だろう。スーツを何着か買って、資格取得のために教材を買って、海外出張のために英会話教室に通って、といったところがせいぜいで、それにしたところで会社から補助金が出る場合も少なくない。

こういった状況で年間に150万もの経費を使うのは、実は至難の業なのだ。ちゃんとこのあたりのことを理解してから、増税反対を唱えてもらいたい。

なんて偉そうなことを言っている自分も、以前は同じように無知だった。サラリーマンを辞めて5年ほどフリーのシステムエンジニアをやっていたことがあり、そのときに確定申告をしてみて初めて、いかにサラリーマンが恵まれているかがわかったのだ。

とは言うものの、ただでさえ収入が少ないのに、税金だけ増えるのは自分としても非常に苦しい。心の中でこそっと「増税反対」とつぶやいてみる今日この頃。



05/06/11

サラリーマンの間でうつ病が流行しているらしい。

「心の風邪」とも言われるこの病気は、なにかとストレスの多い今の社会では、誰がなってもおかしくない病気だそうだ。真面目で責任感が強い人ほど、うつ病にかかりやすいとのこと。

自分は大丈夫だろうか、とふと心配になった。真面目で責任感が強いかどうかはわからないが、なにせ自分は気が小さい。それにプレッシャーにも極端に弱い。さらにはちょっと嫌なことを言われたりすると、すぐにヘコんでなかなか立ち直れない。こんな性格で今までうつ病にかからなかったことの方が不思議なくらいだ。

いったい相方はこんな自分の性格をどう思っているのか、確認してみた。「おれって、やっぱりうつ病にかかりやすいタイプだよね」と訊いたところ、「君は大丈夫だよ、うつ病からは一番遠いタイプの人間だから」という意外な答えが返ってきた。

いや、ちょっと待て。だからさっきも言ったように、自分は気が小さくて、プレッシャーに弱くて、すぐにヘコんで、おまけに足も臭いわけだ。まさに人間失格なわけだ。生まれてすみません。

「だって、君は嫌なことがあるとすぐに逃げるじゃない。そういう人は絶対にうつ病になんかならないよ」

なるほど。言われてみれば確かにその通りだ。嫌なことがあったら真正面から取り組むなんて疲れることはせず、一目散に敵前逃亡を図るのがこれまでの自分の行動パターンだった。さすがは相方、自分よりも自分のことをよく理解している。

ってことで、うつ病に悩む人たちにアドバイスしたい。嫌なことがあったらすぐに逃げなさい。逃げたって、人生なんとかなるもんです。



05/06/05

結婚1周年記念として、式を挙げたホテルから食事の招待券が届いたので、ちょこっと出かけた。

最上階のフランス料理店で食事をしたのだが、いや、なんとも疲れる食事だった。パリッとしたウェイターさんが料理を運んでくるたびに、素材やら調理法やらソースやらの説明をしてくれるのだが、そんなもん聞いたところでわかるわけがない。ふんふんと適当にうなずくだけだ。うなずきマシーンに徹したら、思いのほか疲れた。

食事中気になったのが、自分たちの隣のテーブルで独り黙々と食べていた女子のことだ。まだ年は若そうな感じだが、お化粧をするでもなく、おしゃれをするでもなく、店の雰囲気からは大きく浮き上がっていたのが気になった。

やっぱりこういう店では、味はもちろんだが、雰囲気を楽しむことも大事だと思う。それなりにおしゃれな店では、それなりにおしゃれをしていくのがマナーだと思うわけだ。

で、翌日のお昼は肩の凝らないレストランで食事をしたのだが、隣のテーブルで独りで食事をしている老紳士に感動した。

とにかく楽しそうに食べるのだ。料理が運ばれてくるたびに、店員さんとにこやかに会話を交わし、背筋をピッと伸ばして料理を口に運び、噛みしめながら満面の笑みを浮かべる様子は、見ているこちらも幸せな気分になってくる。さらに、着ている服もかなりおしゃれで、見ていて本当に気持ちのいい紳士だった。

苦虫を噛み潰したような表情で食べるのも、満面の笑みで食べるのもその人の自由。だけど、食事くらいは楽しく食べたいものだ。自分もあの老紳士のようになりたい、そんなことを思った結婚1周年だった。



05/05/29

Yahoo! Internet Guide でこのサイトが紹介された。サイト開設5年目にして初のメディア掲載だ。

サイトを開設するなり大繁盛して、いきなりメディアに掲載されまくり、その勢いで本を出版して、さらにはテレビにまで出演、というのが開設当初の計画だった。しかし、計画の進捗率は現時点でおよそ 0.5% くらいか。まだまだ先は長そうだ。

初のメディア掲載を記念して、他の大手サイトがよくやっているように、トップページに掲載履歴でも載せようかとチラリと思ったが、とりあえずやめておいた。単純に考えると、この次にメディアに掲載されるのは5年後になるから、それまでの間はたった1件の掲載履歴しかないことになる。

たった1件の掲載履歴を後生大事にトップページに載せるのはいかにも恥ずかしい。まるで、数年前に一度だけラーメン雑誌に掲載されたときの記事を、店の入り口にいつまでも貼ってあるラーメン屋みたいだ。何年も日光に晒されたその切り抜きは、すっかり色あせていたりする。

こういう切り抜きを貼るのは、かえって逆効果なんじゃないかと思う。これでは「数年に一度しか雑誌に取り上げられないまずいラーメン屋」と自ら宣言しているようなものだ。少なくとも、自分はこういう店でラーメンを食べたいとは思わない。

サイトを運営する以上、やっぱり流行らないサイトよりも流行っているサイトを運営したい。人が見て、「かわいそうに、たった1件の掲載履歴をありがたそうにトップページに載せているなんて、きっと流行ってないサイトなんだろうな」とは思われたくない。

ってことで、他にも掲載してくれるメディアを大募集。いかがわしいメディアでなければ何でもオッケーです。「30歳からの独習英語」を是非とも男にしてやってください。



05/05/22

愛車「流星号」の累計走行距離が300KMを超えた。1ヶ月で300KMは、自分としてはなかなかのハイペースだと思う。

1回のサイクリングで50KM〜100KMくらいは走るので、1ヶ月にすればこれくらいの数字になる。しかし、まだまだ初心者なので、このくらいの距離でも結構大変だ。

最初は勢いにまかせてペダルを踏むので、ママチャリにまたがった女子はもちろんのこと、マウンテンバイクに乗った若い男子すら問題にせずスイスイと追い越して行く。逆に最後の方は息も絶え絶えで、マウンテンバイクの若い男子はもちんろんのこと、ママチャリの女子にすらスイスイと追い越される始末である。

バテバテになりながら、最初にペース配分をもっと考えればよかったといつも思うのだが、後悔先に立たずだ。そもそも、自分は計画的に行動することができない人間である。そんなことができるくらいなら、今頃はもっと違った人生になっていたはずだ。

就職のときだって、就職活動を続けるのが面倒だというなんとも怠慢な理由で、早々に切り上げて適当な会社に決めたし、転職するときだって、そのときの気分次第で大して深く考えずに転職してきた。なんとかなるだろう、それが自分の唯一の行動基準だ。

他人の目には、きっといい加減な人間に映るだろう。しかし、これはこれで結構楽しい人生だったりするのだ。なんとかなるだろうと考えて行動し、実際になんとかなっているんだから。

ってことで、これからもペース配分など考えず、勢いにまかせてペダルを踏んでいきたい。そんな自分は今日も筋肉痛。



05/05/15

マンションの管理組合の理事になった。

大学を卒業してから今までヒラ街道をまっしぐらに突き進んできた自分にとって、はじめて役職がついたことになる。前略おふくろ様、自分もようやく人並みに出世することができました。クジで選ばれた理事ですが、理事は理事です。近所の人たちに思い切り自慢してください。

管理組合の理事なんて当然はじめての経験なので、どういった仕事をするのかまだピンとこないのだが、住民から管理人さんに上がってくる問題などを協議して決定する、ということも仕事の一部のようだ。

たとえば、XXX号室の誰々さんが、庭に木を植えたいと言ってますが、どんなもんでしょう? といったことを協議するのである。そりゃダメだ、と理事会で決定されれば、その人は庭に木を植えることはできなくなる。

そんな些細なことにダメ出ししていたらマンション生活に波風が立つので、もちろんそんなことはしないのだが、とりあえず決定権を握っているということはなかなか快感だったりする。

マンションの管理組合の理事ですらそうなのだから、国連の常任理事ともなれば、その快感はどれほどのものだろう。日本が必死に常任理事国入りを目指し、中国が必死にそれを阻止しようとしている気持ちも容易に理解できる。

ってことで、頑張れニッポン。なんとしても常任理事国入りを果たし、その快感を味わってほしい。会計担当理事である自分からの熱いメッセージだ。



05/05/07

それにしてもどうしたもんだろう、マスコミのJR西日本たたき報道は。

今回の事故はもちろんJR側に責任がある。それは間違いないが、だからと言って、ここぞとばかりに鬼の首でも取ったようにJRをたたきまくる報道姿勢には激しく疑問を感じるのだ。

JR職員だって人間だから、ミスは犯す。ミスを取り戻そうと、なかばパニックに陥ることだってある。なにせ1分でも遅れようものなら、我々日本人は異常なまでに反応するからだ。それを、JR西日本の管理体制にすりかえて報道するのはいかがなものか。結局のところ、時間に正確な列車運行を強制しているのは、我々乗客の方ではないのか。

事故後の報道も、どこぞの駅で列車がオーバーランしただとか、ドアを開けずに駅を発車しただとか、ことさらにJRのあら探し報道に終始しているが、そんな運転ミスは、はっきり言って日常茶飯事のことだ。これだけの過密ダイヤで、まったくミスがないほうがおかしい。

それを、ことさらに今回の事故と結びつけて報道するマスコミはどうかと思う。視聴率が取れればそれでいいのか。発行部数が伸びればそれでいいのか。

マスコミは常に悪者とヒーロー・ヒロインを欲しがる。スポーツなどの報道ではそのときの人気者をヒーローやヒロインに仕立て、これでもかとばかりに報道しまくる。逆に今回のような事故の場合、加害者側を悪者にして徹底的にたたく。

そんなマスコミに問いたい。あんたらはいったい何様なんだと。



05/04/30

日本橋の高島屋に行ったら、入り口の特設ステージでピーター・フランクルが大道芸をやっていた。

見事な芸だ。2〜3分だけ見て立ち去るつもりだったが、結局20分を超えるステージを最後まで見てしまった。芸も見事だったが、彼の話術もなかなか巧みで、思わず笑いを誘われてしまった。

この人は、大道芸人であり、数学者であり、10ヶ国語以上を操るというまさに異能の人である。数学が得意でさらに語学も得意という人は、そうそういないのではないだろうか。

数学と語学というまったく性格の異なる学問に秀で、複数の言語を混乱なく操る彼の能力は、両手を自在に操る能力が要求される大道芸と深い関係があるような気がする。

自分の場合、語学は若干得意だが、数学は大の苦手だ。大道芸どころか、お手玉2個ですらもたつく。その上、手先は不器用だし、方向音痴だし、メカには弱いし、気も弱いし、さらに足は臭いしで、まさに人間失格だ。生まれてすみません。

で、何が言いたいのかというと、世の中には天才ってやっぱりいるんだなあ、ってことだ。自分みたいな凡人がいくら努力したところで、こういう天才に追いつくことは一生できない。だからといって、努力をあきらめてもいけない。努力こそが尊いのだから。なんつって。

それにしても、こういう貴重な才能を大道芸なんかに費やしていいのだろうか、ピーターさん。もっと他に使いみちがあるような気がするんだが。



05/04/23

萌える若葉に誘われて、自転車なんかを買ってみた。

何年ぶりだろう、自転車に乗るのは。よく考えてみたら、7〜8年前に津田沼から行徳に引っ越したときに、それまで乗っていたカローラ・レビンとともに、安物のロードレーサーを一緒に手放したとき以来である。

交通システムの発達した首都圏に住む限り、日常の移動手段は公共交通機関と自分の二本の脚だけで充分だ。「車」なんてまったく必要ない。そうは思っていたのだが、引っ越した千葉市が予想外に素敵な街だったので、思わずチャリを買ってしまったのだ。えへへ♪

我が愛すべき新車は、24段変速のドイツ製ロードレーサーである。もちろん、何十万円もするプロ仕様なんかではなく、初心者向けのお手軽なロードレーサーもどきである。しかし、24段変速なんてド素人の自分にはオーバースペックもいいところで、どこをどうすればいいのか、オタオタするばかりだ。とりあえず、愛車の名前は「流星号」と名づけた。

今の季節、やっぱりチャリンコは快適だ。やわらかい春の光を浴びながら爽やかな風を切って走るという行為は、何物にも代えがたい贅沢だと激しく実感する。もしも願いが叶うのならば、このまま時間が止まってほしい。

散歩のプロを自称している自分としては、散歩よりもサイクリングの方が素敵だとは口が裂けても言えない。口が裂けても言えないけれど、心の中では「もしかしたら、状況によっては、散歩よりもサイクリングの方が素敵なこともあるかもしれないね、パパ」くらいのことは思わないでもない。

ってことで、一句詠んでみるか。

若葉萌え 心ウキウキ ペダル踏み踏み



05/04/16

気分も新たに新年度の始まりだ。新入生のみなさん、入学おめでとう。将来の日本を背負って立つのは君たちだ。これからしっかり勉強しなさい。

進学とともに学ぶ教科も増えるから、よけいに新鮮な気分になるものだ。自分の場合は、はじめて英語の授業を受けたときに、中学生になったんだなあ、と改めて実感した。

しかし、英単語の暗記はやっかいだった。特に曜日の暗記が苦手だった。火・水・木あたりがどうしてもごっちゃになってしまうのだ。そんな自分を見かねてか、先輩が「曜日はこうやって覚えろ」と言って、ものすごい記憶法を教えてくれた。以下にその語呂合わせを紹介したい。

散々揉んでチューして上に乗ってさすって振られて去ったでい。

これで一発で覚えられた。すごい語呂だと思った。自分もこれまでに千を超える英単語の語呂を作ってきたが、これよりも優れた語呂は残念ながらいまだに作ることができずにいる。

これだけすごい語呂は当然全国区だろうと、この前相方に訊いてみたのだが、そんな語呂は聞いたことがないという返事だった。まあ、こんな語呂で曜日を暗記している女子中学生というのもちょっと考え物ではあるが。

しかし、まさか佐渡ヶ島限定の語呂ってわけではあるまい。きっと相方が知らないだけで、深く静かに全国の中学で語り継がれている語呂だと思う。この語呂を聞いたことがあるという方、情報求む。



05/04/10

先週に引越しを終えて、ようやく少しだが落ち着いてきた。

これまで7年間住み慣れた市川市から千葉市へと引っ越した。住み始めてまだ一週間しか経たないが、なんだか素敵な感じのする街だ。さようなら市川市、また逢う日まで。こんにちは千葉市、これからよろしく。

ってことで、この覚書は買ったばかりのテーブルの上で書いている。恥ずかしながら、上京してから今までの間、テーブルでの生活というものを経験したことがなかった。小さな座卓を使ったことはあるが、椅子に座ってテーブルに向かうというスタイルは、これまでの狭い部屋のスペースが許してくれなかったのだ。

引っ越す以前は、床にパソコンを置いて、あるいは膝の上にパソコンを置いてサイトの更新をしていた。今から思えばなんと貧乏くさいことか。これまでの覚書のネタは貧乏ネタが多かったが、それはすべてこの貧乏くさいスタイルのなせる業だったのだ。

これからはそんなことはない。こうしてテーブルにパソコンを置いて書いていると、なんだか偉い作家センセイにでもなった気分で、すこぶる快適だ。もう貧乏ネタは封印して、これからは高尚なネタを書いていこうと思う。

さようなら貧乏、また逢う日まで。こんにちは快適、これからよろしく。

なんつって。実は相方と一緒に無理をして現金をかき集めて払ってしまったら、手元にはいくらも残っていないのだ。ローンは大学生のときの学生ローンで懲りているから、銀行ローンはどうしても組みたくなかった。

悲しいことだが、これからも当分貧乏ネタは続きそうだ。



05/03/20

それにしてもどうしたもんだろう、竹島問題は。

韓国の人たちの過剰な反応は、見ていて痛々しい。日本の国旗を燃やすだけでは飽き足りず、中には自分の身体に火をつけて抗議する人もいたりするから驚く。どうせ火をつけるんだったら、私のハートに火をつけて♪なんつって。

竹島の歴史には微妙な部分があるのは確かだし、韓国側の主張もあながちこじつけばかりだとは言いきれない。だったら出るところに出て白黒をはっきりとつけるのが筋だろう。現に日本は、国際裁判での解決を以前から韓国に呼びかけている。これに応じずに頑として実効支配を続けているのは韓国の方だ。

領土問題に限らず、スポーツでもそうだ。日韓戦となると敵意むき出しで日本にブーイングを送る。どうしてこうも韓国人は余裕がないのか。なんだかおもちゃを買ってもらえずに駄々をこねている子供みたいだ。

それに比べて日本人は大人だ。竹島など問題にならないくらい不当に占拠されている北方領土にしたって、ロシアの国旗を燃やす人なんていないし、原爆を落とした「鬼畜米英」のアメリカは、今や日本の一番の友好国になっている。

考えてみるに、日本はあまり韓国のことを意識してはいないのだろう。少なくとも、「韓国憎し」と感じるほど意識してはいないと思う。しかし韓国は日本が憎くてしかたがない。それこそ寝ても覚めても日本のことが頭から離れないほどに意識しているのだろう。なるほど、つまりは韓国の一方的な片思いってことか。

これが少女マンガだったら、ある日突然憎しみが愛情に変化するところだが、現実問題としては無理だろう。なにせ相手はただひたすらに駄々をこね続ける子供だから。



05/03/13

コンビニで、リボンのかかったクッキーを一個だけ買っている若い男子を見かけた。なるほど、明日はホワイトデーなのか。

男子の手にしたクッキーは、何種類かあるうちの一番安いヤツだった。これがもし本命クッキーだとしたら、ずいぶんとケチな男子だ。逆にこれが義理クッキーだとしたら、ずいぶんと人気のない男子だ。どちらにしても頑張れ、若い男子。

それにしても要らんなあ、義理チョコだけは。幸いにして今の職場では、義理チョコと義理クッキーの交換という悪しき習慣は存在しないが、以前に勤めていた職場ではそれがあった。博愛精神に満ち溢れた女子たちが、腹筋の割れた若い男子にも、お腹のポッテリとしたオヤジにも平等にチョコを配ってくださるのだ。ああ、ありがたや。

大体、こんなにも心のこもらないチョコをもらって喜ぶ男子なんているのだろうか。もしそんな男子がいるのなら、一目でいいから見てみたい。よほど純粋なのか、よほど甘いもの好きかのどちらかだろう。虫歯には気をつけろよ。自分は甘いものが嫌いなこともあるが、心のこもっていないものなんて、チョコでなくても欲しくない。

休暇を取って旅行に行った人は、必ずと言っていいほどお土産のお菓子なんかを職場で配るが、これもやめてもらいたい。お土産を買ってきてくれなんて頼んでないし、勝手にそんなことをやられては、自分が旅行に行ったときもお土産を買ってこなくてはならなくなる。まったくもっていい迷惑だ。

職場にはうわべだけのコミュニケーションなんて必要ない。殺伐としているくらいでちょうどいい。

結論としては、義理チョコなんて要らないから現金をください、ってことだ。心のこもっていない現金でも大歓迎。引越しを間近に控えた今、お金の必要なことばかりで頭が痛いのだ。



05/03/06

雪の降る中、来月に引っ越すマンションの内覧会に行ってきた。

やはり新築はきれいでいい。なにもかもピカピカで、気持ちいいことこの上なしである。目前に迫った引越しにも気合が入ってくるってもんだ。面倒だけど、とにかくやらなくてはいかん。

で、ドアのところに花束が挿してあった。引越しおめでとうございます、という業者のはからいらしい。しかし、この花束ってどうなのよ。もらって嬉しいものかね。花より団子ではないが、花束をもらうよりはその金額分の商品券なんかをもらった方がずっと嬉しい。

以前に会社を辞めたときに花束をもらったことがあるが、部屋に花瓶などないし、かと言って捨てるわけにもいかずで、えらく頭を悩ませた覚えがある。「花束なんて要らないから、その分を現金でもらえないかな?」と担当者にこそっと相談したのだが、「社員会の決まりだからダメ」と断られたのだ。

女子はともかく、花束をもらって嬉しい男子などいるのか、はなはだ疑問だ。まあ中にはそういう男子もいるのだろうが、そういう繊細な男子とはきっと友達にはなれないと思う。

野に咲く花を眺めて「きれいだなあ」と感じることはあるが、花束を眺めて、「なんてきれいなんだろう」と感じることはまったくない。花は野に咲くからこそ美しい。きれいに切り揃えて飾られた花束なんて、美しくもなんともない。

結論としては、花束なんて要らないから現金をください、ってことだ。

そろそろ引越しの準備で忙しくなりそうだ。このホームページもあわせて引越しをする予定なので、その際はよろしくお願いします。



05/02/27

ちょっと汚い話で申し訳ないが、今回はトイレについて書いてみたい。

ちょっと小ぎれいなデパートなんかの個室に入ると、たまにセンサー式のトイレがある。便器から立ち上がると、自動的に水が流れるタイプのトイレだ。なんとも便利なトイレではないか。

しかし、実際に使ってみるとすこぶる不便である。センサーが敏感すぎるのか、少し腰を浮かせただけですぐに水が流れてしまうのだ。どんなに遠慮がちにふるまっても、5〜6回は勝手に水が流れてしまう。これでは落ち着いて用を足すことはできない。君が落ち着かないと自分も落ち着けないじゃないか、センサー君。

大体、勝手に水が流れたところで、それが一体どうしたというのだ。水なんざ、自分で流せばよろしい。水を流せない人は、トイレなんて使ってはいけない。現代人はあまりにも過保護になりすぎてはいないか。

子供たちの教育のためにもよくない。人糞がどれほど貴重なものなのか、きっちりと教え込むべきだ。

江戸時代には、人の糞尿が貴重な肥料として売買されていたのだ。実際のところ、人糞は肥料としてすこぶる優秀な代物である。自分の実家でも、つい最近まで畑の肥やしとして再利用していたからよくわかる。簡単に水で流していいものではないのだ。

なんて言っている自分も、日々お手軽にレバーをひねって下水道に流しているわけだが、まあ、ここはひとつ水に流してもらいたい。なんだかんだ言っても、便利な方がいいに決まっている。ただ、敏感すぎるセンサーだけはどうにかしてもらいたい。



05/02/19

たまには仕事の話でもしてみるか。

今は某翻訳会社で、英訳の仕事をしている。おおまかな工程としては、まず翻訳をして、それからネイティブ・チェックが入り、レビューを経て、スタイル付けを終えたのち納品になる。マニュアル等の大規模な翻訳になるともっと複雑な工程を経るのだが、小さな仕事の場合は大体こんな感じで流れていく。

でもって、ある会社の社内報を英訳したときのこと。短い納期と難解な文章に苦しみながら、なんとか翻訳を終えてネイティブ・チェックに回したところ、驚いたことに「スティーブン・キング」という名前のネイティブが担当だった。

さすがはキング氏である。彼の校閲にかかると、ただの社内報が一流のホラーへと一変する。いきなり超能力少女が街を火の海にしたり、ヒーリング能力を持つ大男が登場したり、静かな住宅街で大量殺人が起きたりと、まさに手に汗握る展開である。

もちろん、そんなわけはない。キング氏は忠実に自分の仕事をこなし、校閲を終えた原稿は、見事なまでに添削の嵐となっていた。自分なりにベストを尽くして訳した原稿が添削されまくるというのは、ある意味ホラー小説よりも怖かったりする。

しかし、「なるほど、こういう言い回しもあるのか」などと感心することしきりである。考えてみれば、自分のつたない翻訳をネイティブにチェックしてもらって金を稼いでいるのだから、なんとも贅沢な話だ。お金をもらって勉強できるのだから、夢のような話だ。

ってことで、これから翻訳者を目指している人に一言だけアドバイスしたい。目指すなら絶対に英訳の翻訳者がいい。お金をもらって添削してもらえる夢のような環境があなたを待っている。



05/02/13

ふと気づいたら、いつの間にか38歳になっていた。

38歳といえばもう立派な大人だ。テレビのニュースなんかで、名前の横に書かれた年齢を見るたびに、「コイツ、自分より年下なのか」と感じることが多くなってきた。30歳そこそこくらいの人でも、間違いなく自分よりずっと立派な大人に見える。他人から見た自分は、はたして年齢相応に見えているのだろうか。

子供の頃は、自分は絶対に30歳にはならないものだと思っていた。と言うより、30歳というのはすごく大人で、そんなすごい大人になった自分が想像できなかった。

しかし実際の今の自分は、18歳の頃からなんら人間的に成長していない気がする。同年代の人たちと比べても、人間的にかなり劣っている気がする。どこがどう劣っているかを書くのは面倒なので、ここで具体的に書くことはしないが、きっといろんな面で劣っていると思う。

しかし、なにかひとつくらい優っていることはないかと考えてみたところ、ひとつだけ思いついた。それは「腹筋」である。

去年の夏くらいからトレーニングを始め、最近になってようやく腹筋が割れてきた。なかなか素敵な感じである。38歳にして腹筋が割れている男子なんて、おそらくそうはいないだろう。

年齢相応にぽってりとしたお腹も素敵だとは思うが、年齢に逆行するかのように割れた腹筋というのも、かなり素敵だと思う。人間的に優れてはいるが、ぽってりしたお腹の38歳と、人間的に劣ってはいるが、腹筋の割れている38歳とではどちらが素敵か、あえて言うまでもないだろう。

ってことで、少々強引だがここで言い切ってしまおう。男子の価値は腹筋で決まる、と。



05/02/06

やや旧聞に属することだが、アメリカの国務長官がパウエル氏からライス氏に代わった。

穏健派のパウエル氏から強硬派のライス氏に代わることにより、現在の国際関係がどう変わってくるのか、なんて小難しいことを書くつもりはもちろんなくて、ライス氏はやっぱりライスが好きなのかなあ、なんてちょっと思ったのである。

自分は「ごはん」は大好きだが、「ライス」は嫌いだ。

「ごはん」から想像するのは、田舎の食堂なんかで愛想のいいおばちゃんが、タクアンが二切れくらい乗っている小皿と一緒に持ってくる、どんぶりに盛られた熱々のごはんである。一方「ライス」から想像するのは、ファミリーレストランなんかでマニュアル通りの愛想笑いとともに出される、平たい皿に盛られたごはんである。

大体、何が悲しくてごはんをフォークで食べねばならんのか。ごはんは箸で食べてこそ美しい。フォークで食べるという行為は、ごはんに対する冒涜でさえあると思う。日本人なら箸で食べなさい。

あの平たい皿もいただけない。ごはんの表面積が大きくなるから当然冷めるのも早いわけで、食べ終わる頃には皿の底にたくさんの米つぶがくっつくことになる。これをフォークですくって食べる絵はまったく美しくない。日本人なら茶碗で食べなさい。

ごはんは茶碗かどんぶりに盛り、背筋を伸ばして箸で食べるのが正しい。皿に盛ったり、フォークで食べたりした瞬間に「ごはん」は「ライス」へと成り下がってしまう。せっかくの美味しいごはんだ、ごはんはごはんのままで食べよう。

ってことで、頑張れ、ライス長官。



05/01/23

今回は、駅前などで配られているポケットティッシュの受け取り方について考えてみたい。

ほとんどの人は、受け取ると同時にポケットやバッグにしまい込み、何のティッシュなのか確認すらしようとしない。ティッシュと一緒に広告のチラシなんかもついていることがあるが、受け取るそばからこのチラシを捨てて、ティッシュだけをしまう人も多い。

この受け取り方はどうなんだろう。やはり最低限のマナーとして、何のティッシュなのか確認くらいはするべきではないのか。

駅前で配られるティッシュとしては、サラ金、パチンコ屋、新築マンションの広告といったところが一般的だろう。自分はこういったティッシュを差し出されたら、とりあえず受け取ることにしている。受け取るからには、とりあえず何の広告なのか確認することにしてる。

サラ金に走るほどお金に困っているわけでもないし、パチンコなんてこれまでに片手で数えられるくらいしかやったことがないし、新築マンションはすでに契約したしで、確認したところで何の意味もないのだが、確認もせずにポケットにしまうというのは、どうしてもできない。配る方もアルバイトで雇われているだけだと思うが、やはり寒空の下で頑張っているのだと思うと、確認するフリくらいはしてあげたいと思ってしまう。

ティッシュだけではない。たとえば、立ち読みだけの目的でコンビニに立ち寄ったときだって、立ち読みを終えてから一通り店内を物色して、買い物をする意志はあるんだということをアピールするし、冷やかしでモデルルームを見学するときだって、営業マンの説明をきちんと聞いて、ときにはこちらから質問をしたりして、購入意欲をアピールすることは忘れない。

当たり前のようにもらうものだけもらって後は知らん顔、ではちょっと恥ずかしい。自分から手を伸ばして厚かましくティッシュを要求するオバサンよりはマシだが。



05/01/16

日本全国センター試験ブームらしい。

自分が受験生の頃はセンター試験ではなく、共通一次試験だった。雪の降り積もった新潟大学で、青春のエネルギーを答案用紙にぶつけたことが、まるで昨日のことのように思い出される。あの頃僕は若かった。いや、今でも充分に若いつもりだが。

しかし、この試験の思い出はいまだにトラウマとして残っている。なにせ、数学の点数が16点だったのだ。それも200点満点の16点である。いったいどうやったらこんな点数が取れるのか、思わず考え込んでしまいそうなくらいひどい点数だ。

これでは丸々一教科捨ててしまうのと変わらない。いっそのこと、数学の受験自体を棄権すればよかった。たった16点くらいの上積みなんてなくても、二次試験の結果は変わらなかっただろう。だったら、精神的ショックを受けずにすむ分、棄権した方がよかったかもしれない。それはともかく、こんなひどい点数でも受かってしまった新潟大学法学部よ、しっかりしなさい。

ってことで、いまだに数学には根深いコンプレックスを抱えている。数学が得意な人がうらやましくて仕方がない。大抵の学問は努力次第である程度のレベルまでは到達できるものと信じているが、こと数学に関してだけは才能の問題だと思う。数学とは生まれつきのセンスが大きくものを言う学問だと思う。

芸術的センスのない人間がいくら努力したところで、芸術家にはなれないのと同じように、自分みたいな真性の文系人間がいくら努力したところで、数学的センスは養えないのだ。以上を踏まえて、数学の苦手な受験生諸君には以下の言葉を贈りたい。

無駄な努力はしないこと。数学のセンスを養うヒマがあったら、お笑いのセンスでも磨いておいた方がいいよ。



05/01/08

あけおめ、ことよろ。

もしかしたら「あけおめ、ことよろ、って何のこと?」と疑問に思う人もいるかもしれないので、一応説明しておこう。これは「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」の短縮形だ。読者あっての覚書、今年も読みやすさ、わかりやすさ第一で書いていきたい。

それにしても、日本人はいつからこんなに短縮形が好きになったのだろう。「いま、会いにゆきます」が「イマアイ」で、「世界の中心で愛をさけぶ」が「セカチュー」で、「冬のソナタ」が「フユソナ」である。こういった短縮形を口にするのが気恥ずかしいと感じる自分は、もう世の中の流行についていけていないのだろうか。

なんだかものすごい勢いで、世の中に短縮形が蔓延している気がする。この勢いだと、「おはようございます」が「オハゴザ」、「こちらこそよろしくお願いします」が「コチヨロ」、「どうもありがとうございます」が「ドモアリ」になりそうな気がして怖い。若い衆との会話に益々ギャップが生じそうだ。

若い男子が、彼女の両親に結婚を申し込みに行ったときの会話を強引にシミュレーションしてみた。

「今日は改めてお願いしたいことがありまして」「うむ、なんだね」「お嬢さんと結婚させてください」「うむ、ふつつかな娘だが、よろしく頼むよ」「どもあり、こちよろ」「は?」「いえ、ですから、どもあり、こちよろ」「うーん、もう一回言ってくれんかね」「ですから、どもあり、こちよろっす」「すまんが、結婚の話はなかったことにしてくれ」

こんなことにならないように、若い衆には日ごろから言葉の使い方には気をつけてもらいたい。もちろん自分も、ちゃんとした言葉使いができるように日々心がけているつもりだ。

ってことで、今年もこんな感じでダラダラと書いていくつもりなので、よろ。



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