04/12/19 早いもので今年も残りあとわずかだ。
とにかく今年はいろんなことがあって、いつもの年よりもさらに時間が経つのが速く感じられた。世の中は大雨やら台風やら大地震やらで、とかく災難の多い一年だったが、自分に関してだけ言えばこれ以上ないくらいにナイスで素敵な一年だった。 4月の引越しに始まって、5月に結婚式、6月に人生初の海外旅行、9月にマンション購入(引越しは来年だけど)、10月には転職内定と、大きなイベントが次から次へとやってきた。これまでの人生で最大のビッグウエーブ到来という感じだ。 このビッグウエーブに乗じるべく、宝くじなんかを買ってみた。もちろん狙いは1等前後賞合わせての3億円である。今年は間違いなく当たると思う。この勢いで当たらないはずがない。 これまでも年末ジャンボは毎年買っていたのだが、そのときの気持ちはかなり後ろ向きなものだった。「ふう、今の仕事はつまらんなあ。宝くじでも当てて今の仕事を辞めたいもんだ」などと、なんともふざけた動機で買っていたのだ。こんな気持ちで買ったところで当たるはずがない。 しかし、今回は違う。そんな後ろ向きな気持ちなど微塵もない。大体、今の自分には宝くじに頼らなければならない理由などない。宝くじなんて買う必要さえないのだ。自分が宝くじを買ったお金が、少しでも社会の役に立ってくれればいい、そんな気持ちで買っているのだ。 やっぱり人間には心のゆとりが大事だと思う。切羽詰まった気持ちのときには、何をやってもうまくいかないものである。別に当たらなくてもいいさ、当たったらユニセフにでも寄付しようかな、くらいのゆとりを持ちたいものだ。 とかなんとか言いながら、やっぱり買った以上は当たってほしい。だって、当たってくれないと新居の家具が買えないから。 04/12/12 忘年会シーズンたけなわの今日この頃。
自分は忘年会が嫌いだ。いや、忘年会に限らず、大人数での飲み会が大嫌いだ。忘年会・新年会・歓迎会・送別会などなど、社会人として生きていくためには、出席しなければならない飲み会は数多い。飲み会のお誘いがあるたびに、どうやって断ろうかと言い訳を考えるのだが、断りきれない場合も当然あるわけで、そういうときには嫌々ながらまずい酒を飲むことになる。 とにかく自分は集団行動が大の苦手なのだ。自慢じゃないが、小学生の頃から「協調性がない」と毎回のように通信簿に書かれていた人間なのだ。そんな人間にとって、大人数での宴会というのは苦行以外のなにものでもない。 ちなみに、ここでいう「大人数」とは、大体10人以上を指す。10人も集まると、間違いなく動きは鈍る。一次会が終わって二次会へ向かう場合など、誰々さんがトイレに入ったまま出てこないだの、誰々さんが具合が悪そうだの、誰々さんがいなくなっただのと、店の前でいつまでもうだうだとすることになる。いい歳をした大人が固まってうだうだとしている姿はなんともこっけいだ。 飲み会なんてものは、気の合う友人を数人集めてするのが一番楽しい。与太話の合間にちょっと真面目な話もしつつ、飲んで食べて思い切り楽しむのが正しい飲み会のあり方だと思う。わざわざ大勢集まってせっかくの酒をまずくすることはない。つきあいで飲む酒ほどまずいものはない。 「飲みニケーション」などと称してコミュニケーションを深めようと考える向きもあるようだが、わざわざ大勢で飲まなくてもよろしい。コミュニケーションを深めたい人間とだけ飲めばいい話だ。 酒が飲みたければ独りで飲めばいいし、集団行動がしたければ地元の公民館のサークルにでも参加すればいい。頼むから飲み会という名の集団行動に誘わないでほしい。 大人数での飲み会という悪しき習慣が早くこの世からなくなることを願いつつ、師走の日々がせわしなく過ぎていく。 04/12/05 立ち食いそば屋でかけそばをすすっていたときのこと。ちょっと疲れた感じのするおじさんが入ってきて店内のメニューを見回したあと、いきなり店員さんにこう言った。
「じゃあ、かけそばでいいや」 イカ天そばを注文して、あいにくイカ天を切らしてまして、と言われたあとのセリフならわかるが、そういう前フリを一切無視しての「じゃあ、かけそばでいいや」である。 非常に投げやりな感じのする言い方だ。おそらくこのおじさんの心の中では、今月は小遣いがピンチだからかけそばにしておくか、とか、最近胃がもたれるからかけそばにしておくか、とか、昨日飲み過ぎたからかけそばにしておくか、とか、いろんな葛藤があった結果としての「じゃあ、かけそばでいいや」なのだろうが、そういった諸々の葛藤をすべて放り投げてしまうような投げやり感がただよう。 「じゃあ、〜でいいや」という言い方は、あまりにも後ろ向きである。一回言葉にするたびに、ひとつ幸せが逃げていく、そんな気がするくらいに後ろ向きである。せっかく食べるんだから、「かけそばでいいや」ではなく、「かけそばがいい」「かけそばでなきゃダメ」「かけそばこそ我が人生」くらいの意気込みで食べてもらいたい。 なんてことをかけそばをすすりながら考えていたら、前の晩に相方と交わした会話を思い出した。 「明日の朝ご飯のおかずは何がいい?」「うーん、そうだなあ、納豆でいいんじゃない」「ちょっと、“でいい”ってなによ」「いやすまん、納豆がいい、いや納豆でなきゃダメだ、って言うか納豆こそ我が人生なり、みたいな感じでいかがでしょうか?」 何気ない一言のせいで、幸せが逃げていくこともある。「〜でいい」ではなく、「〜がいい」と言える人生、そんな前向きな人生を歩んでいこうと心に誓った師走の昼下がりだった。 最近寒くていいネタが浮かばないので、今回のネタはこんな感じでいいや。 04/11/21 今回は「いただきます」について考えてみたい。
食事の前に、大地の恵みとそれを収穫してくれた人たちの苦労に感謝しながら手を合わせて言うのが「いただきます」という言葉である。しかし、本当に心の底から感謝しながら言っている人は果たしてどれくらいいるだろうか。とりあえず儀式みたいなものだから、と何も考えずに「いただきます」と言っている人が大部分ではないだろうか。 これは「いただきます」にバリエーションがないから、ついなおざりにされてしまうことに原因があるのだと思う。大体、いつもいつも「いただきます」では芸がない。そこで、TPOに合わせて「いただきます」のバリエーションを増やして使い分けてみることを提案したい。 いただき増井山 さあ、チャンコを腹一杯食べるぞ! という気分のときに使う。ちなみに増井山とは現三保ケ関親方の現役時代の四股名で、大関まで登りつめた力士である。なかなかに渋いマスクと美声の持ち主で、何枚か演歌のレコードも出したことがある技巧派力士だった。華麗な外掛けが得意技だった。 いただきマスマティックス 受験勉強の合間の夜食を摂るときに使う。こうして夜食を摂った後は、特に数学の勉強がはかどること請け合いである。自分も受験生の頃に「いただきマスマティックス」していれば、もう少し数学が得意になっていたかもしれない。後悔先に立たず、である。 いただき益々ご繁栄のこととお慶び申し上げます 得意先との接待のときに使う。これを使えば相手から「おお、コイツなかなかやるな」と一目置かれること間違いなしである。その後の商談もきわめてスムーズに運ぶだろう。言い終わってから相手に対して深々と頭を下げれば完璧だ。 ってことで、気に入ったフレーズがあったら、家庭や職場でぜひ使ってもらいたい。なごやかな食事になること請け合いである。 04/11/14 オフィシャルサイトに憧れる今日この頃。
芸能人のサイトとかでよく見かける「○○のオフィシャルサイト」というタイトルがなんとも言えずカッコいい。できれば自分も真似したい。自分みたいな素人が「オフィシャルサイト」なんてタイトルをつけるのはとても恥ずかしいことだとわかっているが、それでも一度はやってみたい。 「オフィシャルサイト」とは説明するまでもなく「公式サイト」のことである。有名になればなるほどファンが運営する関連サイトも増えていくわけで、その中で「これが自分の正式なサイトですよ」と断る必要が出てくる。つまり、「オフィシャル」を名乗るためには、複数の関連サイトが存在する必要があるということだ。 しかし、「誰だよコイツ」と首をひねりたくなるような人物が堂々と「オフィシャル」を名乗っているサイトもたまに見かける。プロフィールを見ると、マイナーなライブハウスで地味に活動している自称プロミュージシャンだったり、たった一冊本を出版しただけの自称プロ作家だったりする。 自分のサイトを持っている人というのは、多かれ少なかれ「目立ちたい、自分のことを誰かに知ってもらいたい」という気持ちがどこかにあるはずだ。そうでなければ、サイト運営なんて面倒くさいことを好き好んでやるはずがない。特にこういう自称ナントカという人種は人一倍目立ちたがりだから、頼まれもしないのに「オフィシャル」なんて名乗りたがる。 一応断っておくが、「自称散歩のプロ」である自分はあまり目立ちたがりではない。むしろかなり地味な人間だ。散歩というあまりにも地味なジャンルを選ぶくらいに地味だ。 売れない人間が「オフィシャル」なんて名乗るのは、やっぱりイカンと思う。名乗るなら名乗るで、もっと謙虚さというものがほしい。ここはひとつ謙虚さをアピールする意味で「セミ」をつけたらどうだろう。なんだかセミヌードみたいな感じで若干そそられる。 結論としては、「ようこそ自称散歩のプロ永橋新吾のセミオフィシャルサイトへ」ってことだ。
04/11/07 仕事帰りの電車の中で、スティーブン・キングの"Different
Seasons"を読んでいる外人さんを見かけた。 04/10/31 自転車がうっとおしくてしかたがない。 04/10/24 部屋に帰ってすぐに、新潟で大きな地震が起きたと妹から電話があった。 04/10/17 今の仕事にもそろそろ飽きたので、こそっと転職なんかをしようと考えた。 04/10/11 地元の産業展に行ってみた。 会場である市場の案内図を見ていると、30代半ばとおぼしきカップルがその案内図を指差しながら、隣で大きな声で話し始めた。 「今どこにいるのかなあ」「えーっと、あっちが水産棟でこっちがあおか棟でしょ、だからほら、今ここにいるんだよ」「あ、そうか、そうだね」 この「あおか棟」とはもちろん「青果棟」のことである。思わず腰を抜かしそうになった。この人たちは30数年も人間をやってきて、二人揃って「青果」を「あおか」と勘違いしたままなのである。思わず「いや、それは”せいか”と読むんですよ」と教えてあげたくなったが、やめておいた。自分も逆の立場で苦い思いをしたことがあるのを思い出したからだ。 何かの展覧会に連れと一緒に行ったときのことだった。展示品の説明書きに「宮内庁御用達」と書かれているのを見た自分は、「へー、みやうちちょうごようたつだってさ。すごいね。ところでみやうちちょうって何?」と、隣にいた連れにボケてみた。自分の計算では、ここで連れの突っ込みを受けて笑いを取る計算だったのだが、それよりも早く横から思いがけない突っ込みが入った。 「それは”みやうちちょう”ではなく、”くないちょう”って読むのよ。それから”ごようたつ”ではなくて”ごようたし”」 横を向くと、いかにもお節介そうなおばさんがにこやかに笑っていた。「いや、それくらいもちろん知っていますよ」と言おうかと一瞬迷ったが、せっかくの好意を無にするのも大人げないと思い、頭の悪い男子を演じて「あ、そうですか、それはどうも」と頭を下げておいた。今思い返しても、なんともほろ苦い思い出だ。 であるから、この二人の場合もわざとボケているという可能性は捨てきれない。いや、きっとわざとだと思う。わざとであってほしい。そうでなければあまりにも辛すぎる。 04/10/03 勘違いしたままの言葉というのはけっこうある。 子供の頃、「春分の日」を「新聞の日」だと思っていた。きっとこの日に新聞が初めて発行されたんだろうと、子供心に思っていた。当時は春分よりも新聞の方が耳慣れた言葉だったので、まあこの誤解は無理もない。 同じく子供の頃、「人間ドック」を「人間ドッグ」だと思っていた。病院に行って「人間ドッグ」を受けると、犬の顔をしたお医者さんから犬のような扱いを受けるのだろうと、子供心に思っていた。この発想にはかなり無理がある。 この二つは、小学校低学年の頃の誤解だからまだいいのだが、つい最近まで誤解していた言葉がある。それは「ダンデライオン」。たしかユーミンの歌に出てくる言葉だったはずだ。 高校生の頃にこの言葉を耳にしたときには、きっとライオンの一種なんだろうな、と何の疑問も持たなかった。ダンデって言うくらいだからきっとダンディなライオンなんだろうな、蝶ネクタイなんかもするのかな、ってことはライオンのくせにモテモテかよ、それにひきかえどうして人間様である俺はさっぱりモテないんだよ、やっぱり柔道部なのがいけないのかなあ、どうせならバレー部かバスケ部にすりゃよかったよ、いや待てよ、思いきって吹奏楽部っていう手もあるな、なにしろあそこは女子部員の方が多いからな、とにかくうらやましいぞダンデライオン、とまで思っていた。 もちろん「ダンデライオン」とはタンポポを表す言葉である。しかし恥ずかしながらつい最近までこの言葉の意味を知らなかった。自称英語が得意な自分にとっては、なんとも恥ずかしいことである。海よりも深く反省して、せっせとボキャビルに励もうと決意を新たにした。 しかし、ユーミンもけしからんと思う。わざわざ「ダンデライオン」なんて言葉を使わなくても、「タンポポ」でいいじゃないか。じゃあなにかい、あんたは道端に咲いているタンポポを見かけて「わあ、きれいなダンデライオン」なんて言うのかい。タンポポの綿毛が舞っているのを見て「わあ、ダンデライオンの綿毛が舞ってるわ」なんて言うのかい。 などと理不尽に逆切れしてみる今日この頃。 04/09/25 福引にチャレンジしてみた。 地元の加盟店で買い物をすると、300円につき1枚の補助券がもらえ、10枚たまると1回抽選ができるというシステムだ。きっちりとためた10枚の補助券を握り締めて、仕事帰りに抽選会場へと出向いた。 会場にはすでに行列ができている。こそっと最後尾に並んで様子をうかがうと、ネクタイ姿の男子は自分一人だけで、周りはすべて女子ばかりである。おまけに、3台並んだ福引マシーンを担当するのもこれまた女子ばかりだ。この瞬間に、わけもわからず思い切り恥ずかしくなってしまった。 例えて言うならば、甘味屋に一人で入ってあんみつの大盛りを注文して、周囲の女子たちの冷ややかな視線を浴びたときのような恥ずかしさ、とでも表現すればいいか。逆バージョンとしては、吉野家に女子が一人で入って、「大盛りツユだくネギだく」と注文したときの、なんとも表現しようのない店内の空気の凍りつき加減、とでも言おうか。 そんなこんなで、恥ずかしさに体を縮めながら福引マシーンを回した。緊張のあまり余分に回し過ぎて、玉の出口が天を仰ぐ位置で止めてしまうという失態を演じてしまった。ちょっと脇の下に汗がにじむのを感じる。苦笑いを浮かべながら玉の出口を水平位置に戻す。出てきたのは赤玉だった。 「はい、赤玉の景品はこちらになります」 思い切り事務的な台詞とともに差し出されたのは、ポケットティッシュだった。普段の自分だったら、「赤玉なんだから、赤玉パンチくらいくれてもいいじゃん」なんていうくだらないオヤジギャグをかますところだが、悲しいかな、恥ずかしさのあまりそんな余裕などまったくない。ありがたくポケットティッシュを頂いて、そそくさと会場を後にした。 まさか福引がこんなにも恥ずかしいものだとは思わなかった。福引にチャレンジする前に、まずは甘味屋であんみつの大盛りを注文することから始めてみよう。 04/09/19 天高く馬肥ゆる秋だ。 秋になると、夏の間放牧されていた馬が丸々と太る。その馬にまたがって、蒙古人が中国の農村を襲撃する。そこで警戒の意味を込めてこの言葉ができたらしい。「秋がきたぞ、蒙古人の襲来に気をつけろ!」ってことのようだ。なるほど、そうだったのか。言葉だけ聞くとなんとものどかな感じがするが、裏には警戒の意味が隠されていたのか。 馬が肥えるついでに、自分もちょこっと肥えてみた。 自分のベスト体重は57〜58kgの間なのだが、気づかぬ間にじりじりと脂肪を蓄えてきたらしく、ついに59kgを肥えてしまった。いや、超えてしまった。ベルトがきつくなったという感じはあまりないのだが、やはり顔が丸くなった気がする。顔は丸くなったが、人間は少しも丸くならないことが悲しい。いやいや、いかんな、こんなことでは。このままじりじりと肥え続けることだけは避けなければ。 肥えてしまった原因は明々白々である。そう、結婚したからだ。 しっかりと朝食が摂れるというのが嬉しい。トーストとコーヒーなんていう手を抜いた朝食ではなく、熱々のご飯とお味噌汁という正統派の朝食だ。朝から自分の大好きなメニューが食卓に並べば、ついつい食べ過ぎてしまうのも道理である。いや、これで食べ過ぎない方がおかしい。 とは言え、60kgの大台に乗ることだけは避けたいと願う今日この頃。まずは朝食の量を徐々に減らすことから始めてみよう。うーん、我ながらなんという贅沢な悩みなんだろう。飢えに苦しんでいる世界中の恵まれない子供たちよ、すまん。 秋がくると馬が肥えるのと同じくらい確実に、結婚すると男子は肥える。天高く男子肥ゆる結婚だ。間違いない。 04/09/12 今年はどうやら台風の当たり年らしい。 しかし、もういくつも日本列島に上陸しているのに、関東地方にはまったくと言っていいほど影響がない。その分、日本海側の地方が被害を受けている。稲作農家である自分の実家も、少なからず被害を受けていたりするから悲しい。 晩稲(おくて)のコシヒカリがちょうど花を咲かせたときに、なんともタイミング悪く台風がやってきたため、せっかくの花が吹き飛ばされたらしい。花がなくては受粉できないから、もうこの稲には実がならない。つまりは、これまでの苦労がすべて水の泡ということだ。ただでさえ貧乏なのに、これ以上貧乏人をいじめてどうしようってんだ。台風君よ、あんまり調子に乗るんじゃない。 今年は大きく張り出した太平洋高気圧のせいで、台風の進路が日本海沿いに押しやられたために、こういう事態になっているらしい。まったく、元気すぎる太平洋高気圧というのも困り者だ。大きく張り出すのは、オヤジの腹と若い女子の胸だけでよろしい。よってたかって貧しい農家をいじめることはないだろう。 これだけ科学が発達した現代ならば、台風を消滅させるミサイルみたいなものを開発することは、決して不可能ではないはずだ。台風が日本列島に上陸する前にミサイルを打ち上げて、台風を消滅させるのだ。もちろんミサイルの発射スイッチを押すのは、台風の被害に遭った人たちだ。調子に乗った台風に、きついお灸をすえてやりなさい。 北朝鮮からの攻撃に備えた迎撃ミサイルを開発する前に、まずは台風を迎撃するミサイルを開発してもらいたい。その年の収入を年に一度の収穫にすべて頼る農家にとって、台風の被害というのは本当に深刻な問題なのだ。 04/09/04 電子レンジで冷凍ピザを焼いたときのこと。 説明書を読むと、「丸あみにアルミホイルを敷き、冷凍ピザを乗せる」と書いてあったので、その通りにしてスタートボタンを押した。5分くらい経った頃、なにやら焦げ臭いにおいがレンジの方からしてきた。よく見ると、レンジの中で火がついて、もくもくと煙が上がっているではないか。慌てて電源を切り、ピザを取り出して火を消した。 火元は丸あみだった。原型をとどめないくらいに溶けてしまっている。改めて説明書を読んでみると、どうやら付属の丸あみは2種類あるらしく、燃えてしまった丸あみは「生解凍専用網」だった。説明書には「必ずお守りください」として、「溶けるおそれがあるので、生解凍専用網は解凍以外に使わないでください」と書かれている。 自分の不注意を棚に上げて言うのもなんだが、こういう物を付属品にするなと言いたい。「溶けるおそれがある」物を電子レンジの付属品にしてどうする。「溶けるおそれ」どころか、実際には威勢よく燃えてしまったじゃないか。危険だ、あまりにも危険すぎる。例えて言うならば、ガソリンスタンドでタバコをくわえながら給油をするのと同じくらいに危険だ。きっと、自分と同じように間違って丸あみを燃やしてしまった人は多いと思う。こんなに危険な電子レンジを作ったメーカーには、大いに反省してもらいたい。 とは言え、自分も多少は反省しなければいけない。正直なところ、自分は電子レンジなんてほとんど使ったことがないのだ。自分のレンジ経験は、たまにスーパーで弁当を買ったときに、備え付けのレンジで温めるくらいしかない。結婚して初めて、レンジのある生活を経験したのだ。 であるから、冷凍ピザを電子レンジで焼くという行為は、自分にとってはこの上なく背伸びをした行為だったのだ。 何事もいきなりはよくない。新しいことにチャレンジするときには、まずは地道に修練を積んでから挑むべきだ。今回のことで、改めてそう思った。ちょっとだけ反省しよう。自分もちょっとだけ反省するから、この電子レンジを作ったメーカーには海よりも深く反省してもらいたい。 04/08/29 生まれて初めて、救急車なんぞに乗ってみた。 夜中に相方が、「お腹が痛い」と苦しみだしたので、すわ一大事、とばかりに慌てて119番に電話した。5分くらい経って救急車のサイレンが聞こえてきたので、道路に出て救急隊員の皆様を出迎えたりしてみる。おお、なんだかちょっとかっちょいい。まるでテレビドラマのワンシーンみたいだ。相方が苦しんでいるときに不謹慎だが、ちょっとだけそんなことを思う。 ストレッチャーに乗せられて、指先にセンサーを付けられた相方の脈拍がモニターに映し出される。おお、かっちょいい。本当にテレビドラマのワンシーンみたいだ。なんとも相方には申し訳ないが、ちょっとだけそう思ってしまう。 さあ、夜の街の静寂な空気を切り裂いて、高らかにサイレンを鳴らして爆走しやがれ! と思ったのだが、なにやら無線でやり取りをしながらサイレンも鳴らさずにソロソロと走っている。どうやら最初の病院に断られたらしい。次に連絡した病院に受け入れが決まってから、ようやくサイレンを鳴らして走り出した。ちょっとだけかっちょ悪いぞ。お見合いパーティーで本命に断られて、押さえの女子に声をかける情けない男子みたいだ。 病院に運ばれてレントゲンを撮られた後、点滴をされた相方がベッドに寝かされた。訊いてみると、点滴には痛み止めの薬が入っているらしい。これから超音波検査をするのだが、検査技師が来るのが朝の8:30なので、それまで痛み止めで我慢しろということらしい。これでは救急車で運ばれた意味がない。 痛み止めも大して効かないらしく、相変わらず苦しみ続ける相方いわく、「点滴、痛かったよ。針を刺すとき、ピューって血が吹き出たんだから」ということだった。うわー、勘弁してくれ。自分はこの手の刺激には極端に敏感なのだ。書いているだけでも気分が悪くなる。 結局、腸のけいれんが痛みの原因ということで、当分の間固形物は口にしないように言われて帰された。とりあえず、変な病気でなくて一安心だ。空腹を抱えてさぞかし辛いだろうが、少しの間頑張ってくれ。 これから相方には、「救急車で運ばれて点滴を打たれた女子」というプライドを持って、人生を歩んでいってほしい。自分は、「絶対に点滴を打たれない」ことを目標に、これからの人生を歩んでいく。 8 月 22 日 くもり オリンピックまっさかりです。 日本人せん手はみんなぜっこうちょうで、ぼくもぜっこうちょうです。おかげで毎日ビールがおいしいです。えど川の花火大会の反省をふまえて、毎日ビールできたえてきた成果がようやくでてきました。ぼくもビール種目なら、金メダルをねらえるところまできたと思います。 とくにじゅう道がこうちょうで、「打倒けんたくん!」を目ひょうに、近所のじゅう道教しつにかよっているぼくとしては、うれしいかぎりです。 でも、なっとくできないことがあります。それは、オリンピック三れんぱをたっせいした野村せん手に対して、「12年間、世界のトップをいじするのはたいへんなことですよね」とか、オリンピック三度目のちょうせんではじめて金メダルをかくとくしたあんのせん手に対して、「12年ごしの願いがようやくかないましたね」とかインタビューするアナウンサーのことです。 この人たちは、「植木算」を知らないのでしょうか。いえ、「植木等」ではありません、「植木算」です。 オリンピックに3回れんぞくして出場するためには、12年間なんてひつようありません。8年間あればじゅうぶんです。どうしてこんなかんたんなことがわからないのでしょうか。アナウンサーというのは、一りゅう大学を卒ぎょうしたエリートだけがなれるしょくぎょうだと思っていましたが、どうもそうではないようです。いがいに頭がわるい人がなるのが、アナウンサーなのかもしれません。けんたくんより頭がわるいとは思わないけど、少なくとも、ぼくよりは頭がわるいと思います。 今から12年もたったら、ぼくは20才になってしまいます。もうりっぱなおじさんです。その頃には、きっとビールの飲みすぎで、体はボロボロになっていると思います。金メダルなんてとんでもありません。でもこれが8年だったら、ぼくはまだ16才でピチピチなので、じゅうぶんに金メダルをねらえると思います。 おはだの曲がりかどは25才から、ということをどこかで聞いたことがあります。ピチピチおはだのうちに、金メダルをとりたいと思います。 8 月 8 日 くもり 毎日あつくてかなわないので、えど川の花火大会に行ってきました。 ぼくの家から歩いて25分くらいのばしょにあるので、先週みたいに重体にまきこまれることがなくて楽ちんです。ぼくも3年生になったので、重体なんていうむずかしい漢字も書けるようになりました。ずいぶんと大人になったものです。 先週はなんのじゅんびもしなかったので、今回はぬかりなくじゅんびをしていきました。クーラーボックスに缶ビールをつめて、えだ豆やぷちトマトなどのおつまみもいっしょに持っていきました。やたいでたこやきを買って、かせんじきの草の上にレジャーシートをしいてすわりました。川から吹いてくる風がすずしくて気持ちよかったです。 あいかたには、子供のくせにビールなんて飲んだらだめだよ、と言われましたが、ぼくはむずかしい漢字だって書けるようになったのだから、もう子供ではありません。ビールくらいでぼくがよっぱらうはずがありません。まったく、あいかたは心ぱいしょうなので困ります。 きれいな花火を見ながら、ビールをぐいっと飲みました。すごく苦くて思わずはきだしそうになりましたが、あいかたに強がりを言ってしまったので、もう後には引けません。思いきってのみほしました。そうしたら、なんだか目がまわって頭がふらふらしてきました。すごくいい気持ちです。けんたくんが、「シンナーを吸うと気持ちいいぜ」と言ってたことがあるけど、ビールはもっと気持ちいいと思います。だいいち、シンナーなんて吸うと頭がわるくなります。これ以上頭がわるくなったら、けんたくんは人間として生きていけなくなってしまうと思います。 きれいな花火を見ながら飲むビールは最高です。日本人に生まれてきてほんとうによかったと思います。 でも、ちょう子にのって飲んでいたら、なんだか気持ちわるくなってきて、頭もガンガンしてきました。しばらく横になりましたが、なかなかよくなりません。あいかたには「だから言ったでしょ、子供のくせにビールなんて飲むからよ」とつめたく言われてしまいました。 家に帰ってからもずっと気持ちわるくて、とっても苦しかったです。あいかたには「じゅうたいかんじゃみたいね」と言われました。じゅうたいかんじゃってどういう字を書くのかわかりません。やっぱりぼくはまだまだ子供です。背伸びしてビールを飲むより、むずかしい漢字をもっといっぱい覚えようと思いました。 今年の夏休みは、ほろ苦い夏休みになりそうです。 04/08/01 暑いときには花火でも見て涼もうってことで、浦安の花火大会に行ってきた。 ある程度予想はしていたが、とにかく半端じゃない人出だ。浦安駅前から会場まで無料送迎バスが出ているのだが、午後6時に列に並んだときにはすでに何百メートルもの長さになっていた。しかし、会場周辺の大渋滞に巻き込まれたとかで、送迎バスがさっぱりやって来ない。 ようやく会場に着いたときには、最初の花火が打ち上がってからすでに20分くらい過ぎていた。それから場所を探して歩くのだが、どこもかしこも一杯で適当な場所がない。ようやく道路脇の植え込みに腰を下ろしたときには、ちょっとだけヘロヘロになっていた。 しかし、やはり花火は美しい。子供の頃に見た花火とは比較にならないくらいに、今の花火は進化している。よくもまあ、ここまで複雑なパターンの花火が作れるもんだと、感心することしきりである。 花火が終わってから部屋に帰るまでが、また一苦労である。長蛇の列に並んで駅までのバスに乗り込んだが、渋滞のためにピクリとも動かない。いつまで経っても動かないので、あきらめてバスを降り、徒歩で駅を目指す。しかし、どこから湧いてきたのかと思うくらいに大勢の人間が一斉に駅に向かっているので、思うように歩くことすら難しい。 そんなこんなで、部屋にたどり着いたときには、危なく日付が変わる寸前だった。花火を楽しんだのはわずか30分くらいなのに、その前後は思い切り時間がかかってヘロヘロに疲れたのでは、まったく割にあわない。 そこで思った。花火を見る側の人間であってはいけない。花火を作る側の人間にならなければいけない。そう、目指すは花火職人だ。自分が花火職人だったら、一番最後にこんなメッセージの花火を打ち上げたい。 「駅までの行き帰りには、バスではなく徒歩をお勧めします」 とにかく、こういうイベントでの交通手段として、バスほどあてにならないものはないと痛感した。急がば回れの諺通り、一番確実なのは自分の足で歩くことだ。 04/07/24 利き腕や利き足と同じく、目にも利き目があるということを初めて知った。 相方に教えてもらったのだが、まずは腕を伸ばして目の前に人差し指を立て、もう一方の手で片目を交互に覆ってこの人差し指を見る。このとき必ず右目と左目では人差し指の見え方(位置)が違うので、両目で見ているときと同じ位置に人差し指が見える方が、利き目ということになるらしい。ちなみに自分の利き目は右目である。 きっと二つペアになっている体のパーツには、必ず「利き」側があるのだろう。 ってことは、耳にも利き耳があるに違いない。どちらかよく聞こえる方が利き耳だと考えて間違いないだろう。片方づつ耳を塞いで試してみたが、よくわからない。しかし必ずどちらかが利き耳のはずだ。若干左耳の方がクリアに聞こえる気がするので、自分の利き耳は左耳とする。 当然肺にも利き肺があるわけだ。どちらかタバコの煙の吸い込みがいい方が、利き肺だと考えて間違いないだろう。タバコを深く吸い込んで試してみたが、よくわからない。しかし必ずどちらかが利き肺のはずだ。若干右肺の方が汚れているような気がするので、自分の利き肺は右肺とする。 もちろん乳首にだって利き乳首があるはずだ。より敏感な方が利き乳首だと考えて間違いないだろう。シャツの上からこそっと触ってみるが、あまり差があるようには思えない。しかし必ずどちらかが利き乳首のはずだ。若干左乳首の方が反応がいいような気がするので、自分の利き乳首は左乳首とする。 まとめておこう。 自分の利き腕は右手で、利き足は左足。利き目は右目で、利き耳が左耳。でもって、利き肺が右肺で、利き乳首が左乳首。思想的には若干右寄りな自分だが、肉体的にはきわめてバランスの取れた人間なのだ。 他にも男子ならではの「利き」パーツがあるのだが、それを書くと思い切り引かれそうなのでやめておく。勝手に想像してください。 04/07/17 毎日嫌になるくらいに暑い。 日本の夏は湿度が高いから辛い。朝起きてから駅に着いて電車に乗るときには、すでに汗びっしょりだ。体脂肪率12%のスリムな自分ですらこうなのだから、下っ腹の突き出たおじさんたちはよけいに辛いことだろう。きっちりとスーツを着こんで、ゆだった顔をしながら荒い息を吐いているおじさんたちを見るにつけ、ご愁傷様、と思ってしまう。 しかし、この高い湿度のおかげで、日本人の肌はしっとりスベスベであることも事実なのだ。フランスを旅行したときには、そのカラッとした暑さに感動したが、やはりフランス人は肌がカサカサで、しかもシミだらけだった。日本のこの蒸し暑さも、悪いことばかりではないのだ。 とは言え、湿度が高いと困るのが、髪の毛がまとまらないことである。自分はちょっとだけロン毛で、しかもかなりのクセ毛なので、この時期は髪の毛がまとまらなくてかなり憂鬱なのだ。朝シャワーを浴びて懸命にブローするのだが、会社に着くまでにはすっかりバサバサになってしまい、思い思いの方向にはねてしまう。何もそこまではねなくても、と思うくらいにはねてしまう。まさに「暴れん坊将軍」状態だ。 これまでは、梅雨の時期になると高い金を払って「縮毛矯正」を美容院でしてもらっていたのだが、全工程5時間くらいかかる割には、その効果は3ヶ月くらいしか持続しないので、いい加減、嫌になった。こんなに高い金を払うんだったら、思い切り暴れん坊になったほうがまだマシってもんだ。 でもって、つい最近、相方の持っている「マイナスイオンドライヤー」なるものを試してみた。 いや、驚いた。仕上がりがなんともしっとりツヤツヤなのだ。マイナスって言うくらいだから、きっとマイナスっぽいんだろうと思っていたのだが、なんともプラスな仕上がりに驚いた。やるじゃないか、マイナスイオン。 もうこれで、湿度の高い夏も怖くない。素敵なマイナスイオンには、「大変よくできましたで賞」を進呈する。 04/07/11 投票なんぞに行ってきた。 自分が投票したところで国政には何の影響も及ぼさないことはわかっているが、投票もしないくせに国政のことをあれこれ論じる資格はないと思うので、限りなく無力な、しかし限りなく清き一票を投じてきた。 投票場を出たところで、テレビ朝日のスタッフが出口調査を行っていた。開票率1% の段階で早くも当確の速報を打てるのは、この出口調査のおかげである。しかし、逆にこの出口調査が昨今の低投票率につながっている気がしないでもない。1% しか開票してないのにもう結果がわかってしまうのなら、別に投票になんて行かなくてもいいや、自分の一票なんて1% の重みすらないんだし、と思っても不思議ではない。有権者の無力感を強くし、余計に選挙離れを助長するだけの効果しか持たないのではないか。 大体、翌日には結果がわかるのに、何をそんなに急ぐ必要があるのか。各テレビ局が競って当確の速報を打つのを見ていると、何とも無駄なエネルギーを注いでいるなあ、と感じる。たかだか数時間早く結果がわかったところで、一体どんなメリットがあるのだろう。 ここはひとつ、腰を据えてじっくりと開票をしてもらいたい。間違っても開票率1% で当確なんて打ってはいけない。途中で圧倒的な差がついても、最後までハラハラドキドキできるように、「大当たり投票用紙システム」を導入したらどうだろう。すべて電子式の投票システムにして、特殊加工を施した「大当たり用紙」を何枚か混ぜておき、機械を通して開票する際に「チャララーン♪」と鳴ったら、その一票は一万票としてカウントされるシステムだ。 これならば投票する方も、「もしかしたら自分の一票が一万票に化けてるかも」と思えるだろう。そうすれば「いっちょ投票してくるかな」と思う人間だって増えるだろうし、おのずと投票率だって上がるはずだ。非常に画期的なシステムだと思うのだが、どうだろうか。これを読んでいる偉い人たちには、是非前向きに検討してもらいたい。 そんな無責任なシステムで良いのかって? それでおかしな候補者が当選したらどうするのかって? 大丈夫、誰が当選したって日本の政治は変わらない。期待するだけ損だ。 結局のところ、政治家に対するこのあきらめ感こそが、低投票率の一番の原因なのだ。 04/07/02 足の具合も大分良くなったので、仕事の昼休みにラーメンを食べに行ったときのこと。 ラーメンと半ライスを注文して待っていると、自分と同じくらいの年齢の男子サラリーマン二人連れが入ってきた。カウンター席のみの店内には、あいにく二人並んだ空席はないが、間をおいて一席ずつ空いた椅子がある。しかし、男子二人連れは並んだ空席ができるまで待つことに決めたらしく、待合用の椅子に腰を下ろした。 そうか、きっと片時も離れたくないくらいに二人は仲が良いんだな。会社でも仲良く机を並べて仕事をしているんだろう。お喋りだけでは足りずに、こそっとメールなんかも打ち合っているのだろう。今日のお昼はどうする? そうだね、ラーメンなんてどうかな? いいね、了解♪ みたいな感じで。 10分ほど経って自分の隣に座っていた二人連れが店を出て行き、仲良し二人組がその席に座った。それぞれがボソボソと注文を言った後は、二人とも黙り込んだままである。一人は携帯電話で何やらメールを打っている様子だし、もう一人はカウンターの中で仕事をする店主の動きを見るともなしに見ている。 うーん、わからん。忙しい昼飯時に10分も待ってまでも並んで食べたいほど仲が良いのかと思いきや、いざ席に着くと押し黙ったままとは、一体どう解釈すればいいのか。もう二人の間には会話など必要ないくらいに成熟した関係なのだろうか。「たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること♪」(by 米米クラブ)ってな関係なのか。 自分に言わせれば、ラーメンなんていう典型的なファストフードを仲良く並んで食べる必要なんてどこにもない。ラーメンなんてものは、ぼそっと注文し、無言でズズッとすすり、こそっとゲップをしながら会計をして店を出る、そんな殺伐とした雰囲気の似合う食べ物なのだ。間違っても、和やかに会話を楽しみながら食べるものではない。そんなことをしていたら、麺は延びるしスープは冷めるしで、ロクなことにならない。 つまりは、鉄は熱いうちに打て! 茶は熱いうちに飲め! ラーメンは熱いうちに食え!ってことだ。 04/06/26 現在、人生初の松葉杖生活を送っている。 冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとしたときに手が滑ってしまい、缶ビールが左足の親指を直撃したのだ。そのときは酔った勢いでそのまま寝たのだが、あまりの激痛に夜中に目を覚ましてしまい、七転八倒、まさにのたうちまわりながら朝を迎えた。 タクシーを呼んで、なんとか近所の病院まで行って診てもらったのだが、この病院が最低だった。秋葉原でアイドルのフィギュアを買い漁るのが趣味といった風貌の若い男子の医者に、「どこ、足の裏それとも表?」なんていきなりタメ口で訊かれた。思い切り痛いと言っているのにも関わらず、傷口を手荒く触診され、痛さのあまり思わず「どあああーーー!」と大声をあげると、「ああ、ごめんごめん、痛かったね」なんて、まるで子供をなだめるような口のききかたをしやがる。 どうして、医者って人種はこうもタカビーなヤツばかりなのだ。医者がそんなに偉いのか。 医者が医者なら、看護婦も看護婦だ(今は看護師というらしいが、やっぱり看護婦の方がしっくりとくる)。親指に添え木を当ててテープで留めたたけで、はいお大事に、と言いやがった。包帯で巻いてくださいよ、とお願いしてやっと包帯を巻くという有様だ。年配の看護婦さんも「松葉杖のサイズを測るから立って」なんていきなりタメ口をたたきやがる。いや、タメ口ではなく思い切り命令口調だ。コイツら、いたいけな患者に対してケンカ売ってんのか? それにしても、お願いしないと包帯すら巻かない病院というのは衝撃的だった。もしかしたら、患者の自主性を尊重する、ある意味では良心的な病院なのかもしれない。何かというと医者に頼り切りになる患者の心の弱さを、あえて突き放すことにより矯正しようとする、新たな試みなのかもしれない。そうか、誤解していた自分が悪かった。海より深く反省する。 なんて、そんなことあるわけがない。病院はタカビーな商売をする場所だということはわかっていたつもりだったが、ここまで気分の悪い病院は初めてだ。 本八幡駅前の日下部病院、こんなヒドい病院にはもう二度と行ってやらん。 04/06/20 知らないうちに梅雨入りしていた。どうやら自分がおフランスに行っている間にこそっと梅雨入りしたらしい。 しかし、おフランスはずっと晴天続きだったし、日本に帰ってからも少しも雨が降らないので、梅雨という気がまったくしない。気象予報士の皆さんは口をそろえて「梅雨の中休み」なんて言い訳をしているが、中休みにしてはあまりにも長すぎる。中休みと言うからには、1時間の昼休み程度の長さでなければならない。これでは、12時に食事に出かけたまま、いつになってもさっぱり仕事に帰ってこないサラリーマンみたいなもんだ。 サラリーマンがこんなことをしていたら、間違いなく上司に怒られてしまう。それにひきかえ、こんなに長い中休みを取る梅雨はなぜ誰にも怒られないのだろうか。こんなことが許されていいはずがない。お願いです、わがままな梅雨のことを誰か叱ってやってください。 以前から思っていたことなのだが、そんなに梅雨にこだわる必要があるのかがそもそも疑問だ。西日本はまだしも、東北地方なんて、雪の時期を除けば、6月よりも9月の降水量の方が多いのだ。大した雨も降らないのに、わざわざ梅雨入りや梅雨明けを宣言する必要がどこにあるのか。気象庁は梅雨から裏金を受け取っているのではないかという疑念すら湧いてくる。 「なんだか最近雨が多くなってきましたね。ちょっと梅雨っぽい感じです」とか、「なんだか最近雨が減って暑くなってきましたね。ちょっと真夏っぽい感じです」くらいで充分だと思う。なにもきっちりと線引きをする必要はない。なんとなく始まってなんとなく終わる梅雨があってもいいと思う。 あんまり長く中休みを取る梅雨のことなんて、自分はとっくに見捨てた。自分にとって今年は梅雨など存在しない年になった。だって、この前雨が降ったのはいつのことだったかさっぱり覚えていないんだから。 ってことで、自分は一足お先に真夏モードに突入だ。イエーイ! とか言いながら、蒸し暑い真夏も、梅雨と同じくらいに大嫌いなんだけど。 04/06/13 引越しが無事済んだと思う間もなく、結婚式と新婚旅行が続いたので、なんだかよくわからないうちにバタバタと時間だけが過ぎていったような感じだ。 ってことで、おフランスに行ってきたざんす。 生まれて初めての海外旅行なのに、いきなりフランスなんて行ってもいいものか、出発前はかなり緊張したのだが、相方が旅なれていたおかけで、無事に帰ってくることができた。とにかくわからないことばかりなので、いちいち相方に「これってどうするの?」とか、「これでいいの?」とか、小声でアドバイスを求める始末だ。ツアー旅行だったのだが、もう一人自分専用の添乗員さんが付いてくれたような感じだ。迷惑をかけてすまんな、相方。 南フランスは想像以上に綺麗なところで、ちょっとだけ感動した。 青い空、白い雲、なんて陳腐な表現があるが、6月の南仏は雲ひとつ見当たらない快晴が続く。まさに見渡す限り青い空が広がる。しかし、景色は素晴らしいが、それ以外はいまひとつだ。ホテルの設備は貧弱だし、電車は思い切り遅れるし、レストランでは大した接客もしないくせにチップは要求するしで、はっきり言ってろくなもんじゃない。それに比べて日本は素晴らしい。誰が何と言おうと、日本が一番だ。 しかし、景色以外にも素晴らしいものがフランスにはあった。そう、それはワインである。 今まではビールに枝豆・冷奴さえあればご機嫌だった自分だが、ワインを飲みながら優雅に食事をするフレンチ・スタイルにはすっかり魅了された。普段の昼食は10分くらいで急いでかきこむ自分からすると、ワインを飲みながら1時間〜2時間をかけてゆったりと摂るランチはたまらなく贅沢な時間に感じられる。 実はこの覚書もワインを飲みながら書いている。 どうだろう、行間からそこはかとなく南仏の爽やかな風が感じられないだろうか。コートダジュールの鮮やかな青空が感じられないだろうか。「そんなもん、少しも感じないぞ」と言うそこのあなた。一度おフランスに行ってきなさい。話はそれからだ。 04/05/23 引っ越してからというもの、休日の昼飯はもっぱらラーメンである。 以前住んでいた行徳もラーメン屋の林立する街だったが、今回引っ越した本八幡も行徳に負けないくらいにたくさんのラーメン屋がある。まだお気に入りのラーメン屋を見つけることはできないが、見つけたときにはすっかりラーメン依存症になっていそうで怖い。 とにかくラーメンは依存度の高い食べ物だ。ラーメンが食べたい、と思ったら最後、何が何でもラーメンを食べないと気が済まない。やっぱりラーメンはやめて焼き魚定食にしよう、とは絶対にならない。それこそ全身でラーメンを求めてしまうのだ。 個人的に依存度の高い食べ物として、他にはカツ丼あるいはトンカツが挙げられる。 ごくたまにだが、無性にカツを食べたくなることがある。一度そう思ったら最後、ブヒブヒと鼻を鳴らしてカツをむさぼり食べるまではおさまらない。 天ぷらも相当に依存度が高い。サクサクに揚がった天ぷらをかじりながら冷えたビールを飲む自分の姿を想像したら、もういけない。血眼になって美味そうな天ぷら屋を探すことになる。 反対に、依存度の低い食べ物もある。その代表的なものが寿司である。もちろん寿司が嫌いなわけではない。むしろ好きである。いや、かなり好きだ。にも関わらず、「あー、寿司食いてー」と思うことはまずない。美しく握られたトロの姿を想像した瞬間に部屋を飛び出して寿司屋に向かった経験など一度もない。 ひょっとしたら、これまでに染み付いた貧乏性が、あたかも自己防衛本能のごとく、無意識のうちに寿司という高級料理を避けるように仕向けているのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。ガラス張りになった回転寿司屋の店内を眺めても、なんとも思わない。そのまま一生回ってろ、と思うだけだ。これまでの人生において、回転寿司で食べたことはただの一度もない。 寿司依存症になるよりは、ラーメン依存症になる方が財布には優しいだろう。でも身体には優しくなさそうだ。これからはちょっとばかり気をつけることにしよう。 子供の頃にテレビアニメで見た「ど根性ガエル」に出てくる梅さんの握る寿司はなんとも美味そうだった。梅さんの握る寿司だったら依存症になるかも知れない。 04/05/07 とりあえず無事に引越しは終わったが、とにかく足りないものばかりで、買い物三昧の毎日である。そうか、今まで自分はこんなにも貧しい、いや、シンプルな生活を送ってきたのか、と改めて感じた。 とは言っても、何を買ったらいいのかなんて自分にはさっぱりわからないから、買い物はもっぱら彼女まかせである。で、彼女の後をついて歩きながら色んな小物を眺めているうちに、あることに気付いた。それは、「サビにくい」だの、「たわみにくい」だの、「たれにくい」だのと言った、「〜しにくい」というキャッチコピーのついた商品が多いということだ。 裏を返して言えば、「多少はサビる」し、「多少はたわむ」し、「多少はたれる」ってことだ。だったら堂々とそう書いてほしい。もし「サビにくい」包丁と「多少はサビる」包丁とが並んでいたら、自分はきっと後者の包丁を買うだろう。あえて欠点を認めるところに潔さを感じる。この潔さが包丁の切れ味までも保証してくれている気がする。 男女の仲も同じことが言えないか。 見合いの席でちょっと遊んでる感じの男子が、「ボクは見た目と違って、結構真面目な人間なんですよ。あんまりモテないから、浮気する心配だってありません」なんて言ったとしよう。ありがちなセリフだ。だがこのセリフには、裏を返せば以下のような真実が隠されている。 「ボクは見た目通り、多少チャラい人間なんだ。多少モテることもあるので、多少の浮気は覚悟しておいた方がいいかもね」 自分では意識していないかも知れないが、こういうありがちなセリフを言う男子の本音は、これに近いものがあるだろう。と言うか、男子女子に関係なく、自分のうわべを飾る言葉の裏には必ずその人の本音が隠れていることは間違いない。 しかしだからと言って、いきなり本音をぶつける人間ってのも困る。「オレって、多少浮気をするけど、オッケーだよね?」なんて言われて、「はい、もちろんオッケーです。私、潔い男子って大好きなんです」なんて答える寛大な女子なんていない。 やっぱり人間は潔さだけじゃダメだってことだ。サビない包丁みたいにスパスパ切れればいいってもんでもない。 04/04/30 やっぱり何度やっても面倒くさいもんだな、引越しって。 何が面倒と言って、引越しの手続をあちこちでしなければならないのが煩わしい。電気・ガス・水道に始まり、NTT、プロバイダー、銀行、郵便局、クレジットカード会社、市役所、免許センター等と、数え上げるだけでうんざりする。荷物は少ないのに、手続だけは人並みにある。しかしよく考えてみると、手続が多いということは、それだけ数多くの業者に自分の情報を握られているということだ。個人情報流出が問題になっている昨今、自分の場合は大丈夫なのかちょっと心配だ。 先月の水道料金が1,890円だとか、電気料金が3,644円だとか、セゾンカードの支払い額が39,002円だといった情報が流出したら大変なことになる。何がどう大変なのかはよくわからないが、きっと大変なことになりそうな気がする。たぶん大変だと思う。ひょっとしたら大変かも。いや、大したことないか。 個人情報と言えば、「それは個人情報ですから」の一点張りで国民年金の支払状況の開示を頑なに拒んだ福田官房長官は素敵だった。自分としては石破防衛庁長官と同じくらいに好きな政治家だ。ああいう、しれっとした答弁が出来る政治家は大好きだ。頑張れ、福田官房長官。 江角マキコの年金未納問題に端を発した今回の騒動だが、つまるところ年金の徴収制度自体がおかしいと思う。こんなもの、はっきりと税金として徴収すればいいのだ。「シルバー世代をねぎらおう税」とでもして強制的に徴収すれば、今回のような問題も起こらないのではないか。 そもそも、「今払っても、将来自分が受け取れるかどうかわからないから払わない」なんていう自分本位な考え方がおかしい。自分たちを育ててくれた親たちのために、今の日本をこれまで支えてきてくれたシルバー世代のために、我々現役世代は自ら進んで年金を払う義務があるのではないか。自分たちが現役を引退するときには、同じように若い世代に世話になるのだから、自分勝手な理由で支払わないというのは良くない。自己責任も大事だが、相互扶助だって大事なことだと思う。 おっと、のんびりとこんなことを書いているヒマなんてない。きたる5/3の引越しに向けて準備を進めないと。面倒くさいが、こればかりは自己責任だからな。 04/04/23 こそっと引越しの準備を進める今日この頃。 いや、別に夜逃げをするわけではないのだから、何もこそこそする必要はない。堂々と引越しの準備を進めている。まあ準備とは言っても、もともと荷物が少ないので特にあわてる必要はない。要らないものを処分して、残ったわずかな必需品をまとめればいいだけのことだ。自慢じゃないが、自分の荷物は極端に少ない。とりあえず赤帽を予約しておいたが、あの軽トラの荷台でさえスカスカになりそうで、そっちの方がかえって心配だ。 なぜ引越しをするのかと言うと、この度めでたくこそっと結婚することになったからだ。いや、何もこそこそする必要はない。めでたく堂々と結婚することになった。いやあ、まことにめでたい。これまでとことん縁遠かった自分にも、ようやく春がめぐってきたらしい。 しかし、今ひとつ結婚するという実感が沸いてこない。きっと自分が男子だからだろう。これが女子だったらいきなり名前が変わってしまうわけだから、それなりの実感があるに違いない。とは言え、いきなり名前が変わるというのも難しい問題だ。 たとえば、真理という名前の女子が水田という苗字の男子と結婚する場合、いきなり「水溜り」になってしまう。これはちょっとだけ恥ずかしい。恥ずかしさ度30%。 あゆみという名前の女子が、浜崎という苗字の男子と結婚する場合もかなり恥ずかしい。その恥ずかしさは女子の容姿と反比例する。恥ずかしさ度50%。 里美という名前の女子が、里見という苗字の男子と結婚する場合、恥ずかしいというよりもむしろ困る。銀行や役所などで、「里見さーん、里見里美さーん」なんて呼ばれたりする状況は相当にシュールだ。呼ばれる方も困惑するだろうが、呼ぶ方としてもかなりの緊張を強いられるに違いない。困った度100% ってことで、引越しの準備とともに、5/29の挙式に向けて何かと気忙しい毎日を送る今日この頃である。5/29の語呂は、「ゴー!肉の日」とでも覚えてもらえれば幸いである。いや、もちろん覚えたところで何の得にもならないが。 04/04/16 アメリカのマクドナルドが、「15日、歩数計のおまけが付いた超低カロリー・セットメニューの発売や、フライドポテトの「特大サイズ」を段階的に廃止するなどの総合的な肥満対策を正式発表した」(Yahoo! ニュースより)らしい。 うーん、何だか必死だな、マック。訴訟天国アメリカでは、「自分が肥満に悩んでいるのはマックの責任」などと裁判を起こしたりする頭の弱い人もいるらしいから、それに対する自衛策なんだろうが、どっちもどっちという気がする。自分の金で買ったものを食べて「こんなにカロリーの高いものを公然と売るのは良くない」と言う馬鹿者は言わずもがな、「それじゃ万歩計をおまけにつけますから、これでカロリーを消費してください」なんて言うマックも同じくらいに頭が悪い。 ハンバーガーに万歩計を付けて売るという行為は、定食のお盆に下剤を添えて出すという行為と何ら変わらない。「食べた分は歩いて消費しろ」というのが、「食べた分は速攻で下から出せ」という、より直接的な手段に訴えただけで、その本質は何ら変わらない。まったく、何という資源の無駄遣いだろう。カロリーが気になるんだったら、最初からカロリーを減らした食事をすれば良いだけの話だ。何もわざわざ無駄なカロリーを摂取して、無駄に身体を動かしてその分のカロリーを消費する必要なんてさらさらない。そんな金があったら、世界中の恵まれない子供たちにハンバーガーの一個でも寄付したらいい。 今回のイラクにおける日本人の人質事件についても、同じことが言えるのではないか。 頼まれもしないのに、わざわざ危険な地域に出かけて人質に獲られ、日本政府に散々迷惑をかけておきながら、得たものは何もない。大体、善意の民間人が個人レベルで危険地帯に行ったところで、出来ることなんてありはしない。自分にも何かできるはず、なんて考えるのは大いなる思い上がりだ。大きな事を成し遂げたかったら、それなりに大きな人間になることが先決だ。悲しいことだが、人命は地球よりもずっと軽い。人命が地球よりも重かったら、国家なんて成り立たない。 うーん、我ながらなんだか論理が破綻している気がするな。言いたいことはいっぱいあるんだけど、難しいことを理論的に述べるのは苦手なのだ。申し訳ない。まあつまりは、ハンバーガーを食べたかったら万歩計なんかに頼ってはいけないし、危険地帯に出向くのだったら、日本政府を頼っちゃいけないってことだ。 いい歳をした大人が他力本願では恥ずかしい。 04/04/09 趣味を多く持っている人間はカッコいいと思う。 趣味は何ですか? と訊かれてさりげなく、音楽鑑賞と美術館めぐりと海外旅行とサーフィンとスキーです、ついでにちょこっとピアノも弾いたりします、なんて答えられる人はカッコいい。激しくカッコいい。これだけで3割増だ。しかし、ただ多ければ良いってもんでもない。 ゲームとアニメとポケモンカード集めとラーメンの食べ歩きとアイドルの撮影会に参加することです、ついでにちょこっとコミケにも参加してます、なんて答える人はあまりカッコよくない。少なくとも自分はあまり積極的に友達になりたいとは思わない。アートとスポーツがバランス良く配分されていることが、カッコいい趣味の条件だと思う。 ってことで、改めて自分の趣味を整理してみた。 散歩と読書と麻雀。あと、一応英語学習サイトのオーナーとして、英語の勉強も趣味に入れておこうか。うーん、これではあまりカッコいい趣味とは言えないな。アートとスポーツがバランスよく配分されているとはとても言えない。散歩は一応スポーツに分類されると考えても、アートに関する趣味が欠けている。芸術的センスがまったくない自分にも、手軽にできる趣味は何かないものだろうか。 そう考えながら、何気なく今朝のNHK教育テレビで放送されていた「みんなの手話」を見たときに、これだ! と思った。一切音声を介さず、手の動きと表情だけで会話をする手話こそ、アートである。頭で考えたことを瞬時に表現するその手の動きが何とも言えずに美しい。まさに手は口ほどにものを言うのだ。 早速テレビを見ながら手話を真似してみたのだが、これが意外に難しい。テレビの画面に映る手話は、いわば鏡写しの状態なので、右手と左手の役割分担が逆になってしまって、思わず戸惑ってしまう。あれ、これって右手の役目なのかな、それとも左手の役目なのかな、ってな感じで思うように手が動いてくれない。 そんな感じで思い切り戸惑いながらも、あなたの名前は何ですか? という手話をマスターした。何ですか? と訊ねる手話は右手の人差し指を立てて小刻みに揺らすのだが、そのときの顔の表情も大事らしい。眉毛を上げながら人差し指を揺らすのがポイントだ。 これからはアーティストを目指して手話に取り組んでいきたい。これから自分に話しかけるときには、すべて手話でお願いしたい。初心者の自分は人差し指を揺らしながら、すべての質問に「何ですか?」と答えさせてもらう。うーん、まさに春爛漫だ。 04/04/02 とあるラーメン屋での出来事。 自分の隣に3人の家族連れが座った。母親と女の子はそれぞれノーマルなラーメンを注文したのだが、小学校高学年の男の子はいきなりチャーシュー麺を注文した。しかも「ネギ多め、メンマ多め」ときた。さらに調子に乗って、サービスの半ライスまで注文した。チャーシュー麺(850円)+ネギ多め(50円)+メンマ多め(100円)=1000円也だ。小学生の昼飯にしてはあまりにも高い、高すぎる。 小学生の男子がそんなに食べられるのかと心配していたら、案の定途中で「お母さん、ボクもうお腹いっぱい」と根をあげた。母親はラーメンをすすりながら、「無理しなくていいから残しなさい」と男の子に声をかけた。ちらりとドンブリを覗くと、三分の一ほど残った麺の上に2枚のチャーシューと何本かのメンマが浮いている。だから言わんこっちゃない。 大体、小学生の分際でチャーシュー麺を注文すること自体がそもそも間違っている。自慢じゃないが、自分はこれまで一度もチャーシュー麺を注文したことはない。これまでの37年間の人生において、ただの一度もない。そんな贅沢品を子供が注文したら、親は「チャーシュー麺なんて食べるのは10年早い」とビシッと注意するべきだ。稼ぎのない子供が親よりも高いものを食べていいはずがない。 どうしても子供にチャーシュー麺を食べさせたかったら、親は無理をしてでも「じゃあ、私はチャーシュー麺のネギ多め、メンマ多めで、卵を乗せてもらおうかしら」と言わなければならない。なにがなんでも、親は子供より1円でも高いものを食べなければならない。それが正しい親と子のありかただ。 さらに、子供が途中で根をあげたときも、やさしく「無理しないで残しなさい」などと言ってはいけない。「あんたが自分で注文したんだから、無理してでも最後まで食べなさい」と言うべきだ。1000円もする高価な食事を「お腹いっぱいだから」という理由で残していい道理がない。頼みもしないのに自分の胃袋の許容範囲を超えた量の食事が出されたときは、それは残してもしかたない。しかし、自分で注文したものは、いくら子供であっても、キッチリと責任を持って食べ切るべきだ。 まったく、食べ残されたチャーシュー麺の身になって考えてもらいたい。これじゃあ、隣でノーマルなラーメンをすすっている37歳独身男子の立場がないじゃないか。 04/03/28 今日は天気も良かったので、お花見に行ってきました(●^o^●) 桜と言えば、もちろん播磨坂の桜並木でしょう! え、知らないって? おかしいなあ(;^_^Aふきふき でもまだビミョーに早かったみたいで、桜の咲き具合はイマイチだった(>_<。。。 とにかく天気が良くて、お酒を飲んでおつまみを食べながらお花見をしている人たちが気持ち良さそうだったよ( -_-)じー やっぱり花より団子ってことなのかな(o ̄∇ ̄)o でもぼくは団子よりも花の方が大事だけど、なんてね(^┰^;)ゞ 今回は桜に見とれてネタを考えるヒマがなかったので、こんな感じで許してねm(_ _;)m 04/03/19 原因不明の発熱に襲われて、3日続けて仕事を休んでしまった。 熱自体は大したことはなく、38度ちょっとくらいのものなのだか、とにかく頭が痛い。ズキズキする痛さで、軽く咳をしただけでも頭にズシンとくる。特に喉も痛くないし鼻水が出るわけでもないので、普通の風邪ではないと思うのだが、かと言ってインフルエンザとも思えない。インフルエンザだったら40度近い高熱が出て、手足の関節に痛みを感じるはずだが、そんなこともない。これまでに何度もインフルエンザで苦しい思いをしてきた経験から、やっぱり今回の頭痛は単なる風邪のせいなんだろうと思うのだが、やっぱり解せない。 ということで、大嫌いな病院に行って診てもらった。 診察室に入るなり、「何、どうしたの?」と初老の医師に問いかけられた。 コイツ、いきなりタメ口で話しかけるとは、一体何様のつもりだ。ちょっとだけ短気な自分はいきなりカチンときた。とは言え、そこは小心者の自分のこと、タカビーな医者に対して必死に気持ちを落ち着かせながら、敬語で自分の症状を説明した。 「そう、それじゃ上着を脱いで袖をまくって。血圧を測るから」ときた。おざなりに血圧を測ったあとに、「じゃあ、とりあえず薬を4日分出しておくから、それでもまだ頭痛が治まらないようだったらまた来て」と言われて、わずか3分にも満たない診察が終わった。 たったこれだけで、診察料960円也である。まったく医者とはおいしい商売だ。病院に行くたびにそう思ってしまう。これで症状が全快すれば結果オーライだが、やっぱり治りませんでした、と言って再診してもらえばまたその分の診察料を取られてしまうのだ。しかも思い切りタカビーな物言いで。現在はテレビショッピングやカタログの通信販売でも、「気に入らなかったら返品オッケー」のシステムを採用する時代だというのに、病院ビジネス界ではいまだにこういう殿様商売が成り立っていることに少なからず憤りを感じる。 牛丼業界は、アメリカ牛の輸入禁止という危機的状況に遭遇しながらも、豚丼などの新メニューを開発しながらたくましく生き残りを画策しているというのに、いまだに殿様商売というぬるま湯体質に浸りきっている病院には激しく疑問を感じてしまう。 診察料の清算のときには、せめて豚丼の並をサービスするくらいの気前の良さが欲しい。それくらいしたって罰はあたらない。紅しょうがと七味をたっぷりとかけてサービスしてくれれば、とりあえずは何も言わない。 病院だって一種のサービス業なんだから、勘違いしてもらっては困る。 04/03/14 今日は日本全国ホワイトデーだったらしい。ホワイトデー、つまりは白い日。日本全国の健全なる男子諸君は、真っ白に燃え尽きることができたのだろうか。 今年はバレンタインデーもホワイトデーも土日に当たったので、義理チョコや義理クッキーを当てにしていたお菓子業界は少なからず打撃を受けたことだろう。しかし、この義理チョコと義理クッキーをやり取りするという悪しき習慣は、一体いつから始まったのだろうか。 自分が中高生の頃は、バレンタインデーは少なからず胸躍るイベントだった。しかし社会人になってからというもの、胸躍るどころか迷惑この上ないイベントに成り下がってしまった。なにしろ、自分は甘いものが大嫌いだ。義理チョコを配る女子に対して、一応はありがとうと言って受け取るのだが、その後で隣に座る甘いもの好きな男子に、これ食べて、とお願いしてこそっと処理していた。ときには甘いもの嫌いな自分に気を遣って、チョコの代わりにハートの形をしたせんべいなんかをもらうこともあるのだが、ハート型のせんべいをかじる成人男子というのも、なんとも絵にならない。当然ながら、ホワイトデーにお返しをしたことなどこれまでに一度もない。 職場の円滑なコミュニケーションのために、こういう儀式は必要だとする人間の出来た男子も中にはいる。彼らの言い分は、「義理でも何でも、せっかくもらったものに対してお返しをしなかったら、相手は気を悪くする」ということらしいが、これは間違っていないか。自分からお願いしたのならばともかく、勝手に押し付けられたものに対してなぜにお返しをしなければならないのか。ラーメン屋に入って「ラーメンと半ライスね」と注文して思わず餃子がついてきて、戸惑いながら食べ終わったときに、しっかりと餃子の分まで請求されるのと同じ理不尽さを感じるのは自分だけだろうか。 要は気持ちの問題である。好きな人からもらうものならば、たとえ野に咲く名もない一輪の花であったとしても、またとない贈り物になるはずだ。 なんつって。そんなわけはない。悲しいかな、現実はドラマとは大きく違う。好きな人からそんなものをもらったりしたら、「この人は自分のことをそれくらいにしか思ってくれていないんだ」と感じることは間違いない。愛情とそれを表現する金額とは、やっぱりある程度は比例するべきものなのだ。 うーん、難しいもんだな。 04/03/07 自分の部屋には洗濯機がないので、洗濯をするときには3週間分の洗濯物を抱えて近所のコインランドリーに向かう。 そのコインランドリーには全部で4台の洗濯機があって、それぞれ 10Kg/500円、16Kg/700円、23Kg/1,000円、32Kg/1,500円という価格設定になっている。大型洗濯機を使えば、自宅の洗濯機では洗うことのできない布団や毛布をまとめて洗うことができるというのがこのコインランドリーの売りだ。 3週間分の洗濯物は500円の洗濯機でちょうどさばける分量なので、自分はいつもこの洗濯機を使っているのだが、先客がいる場合も多く、そのときにはこの洗濯機が空くまで待つことになる。洗濯機が動きを止めたのを確認して速攻で中の洗濯物を引っ張り出し、スタンバイさせておいた自分の洗濯物を素早く洗濯機に放り込む。見知らぬ他人の下着などに触るのはちょっと気が引けるが、後がつかえているのに自分勝手に放置する方が悪い。他人に下着を触られたくなかったら、ずっと洗濯機の前に立って見張ってなさいってことだ。 しかし自分のような人間は少数派らしく、小型の洗濯機がふさがっているのを見て、あっさりと大型洗濯機に洗濯物を放り込む人が結構いたりする。わずか5〜6Kgくらいの洗濯物を、1,500円も出して32Kgの大型洗濯機に何の迷いもなく放り込むのだ。32Kgの洗濯機にわずか5Kgの洗濯物。この27Kgの無駄を無駄とも思わない太っ腹加減。うーん、すごい。なんて器の大きな人間なんだろう。いや、ただ単にあっさりしているだけなのかも知れないが。 意外にこういう人に限って、有名なラーメン屋の行列に平気で1時間や2時間並んだりするのかも知れない。そして「脂多め、味濃いめ」なんていうこってりした注文をしそうな気がする。まったく、あっさり人間なのかこってり人間なのかはっきりしてもらいたい。 自分は洗濯機が空くのは根気よく待つが、ラーメン屋の行列には絶対に並ばない。必要もない大型洗濯機を使うのは大いなる金の無駄だし、たかがラーメンを食べるためにわざわざ並ぶのは大いなる時間の無駄だ。自分はとにかく無駄なことは大嫌いな、極めて合理的な人間なのだ。 決してケチでせっかちな人間などではない。と、自分では信じている。 04/02/27 10年ぶりに健康診断を受けた。 27歳のときに会社を辞めて、それから34歳のときに就職しなおすまでずっとフリーでやってきたため、その間はまともな健康診断など受けたことがなかった。その会社は1年半くらい勤めたのだが、健康診断は思い切りバックレていた。だが、今の会社は社員数が少ないので、さすがにバックレるわけにもいかず、嫌々ながらも受けてきた。 とにかく自分は健康診断が大嫌いだ。なぜと言って、採血をされるのがとにかく怖い。自分は極端に血に弱く、あの刺激的な赤い色を目にするだけでたちまち気分が悪くなってしまう。 受付で簡単な手続を済ませると、いきなり採血から始まった。袖をまくりあげながら必死に平気な表情を装うのだが、もう心臓はバクバクである。もちろん、針が血管に差し込まれるところなど見られるはずもなく、額ににじんでくる汗をこらえながら必死にあさっての方角に視線を向けて耐えた。しかし、思ったほどの痛みもなく、あっけないくらいに簡単に終わった。なんだ、これくらいなら全然平気じゃん、と思って何気なく注射器に視線を移したのがいけなかった。ちょっと粘り気のある液体を見た瞬間に、たちまち気分が悪くなった。 胃の奥からせりあがってくる吐き気を抑えつつ、血圧の計測やら視力、聴力の検査などをこなし、最後に胃の検査に向かったときだった。椅子に座って順番を待つ自分のもとに、看護婦さんがやってきて、これから胃の動きを抑える注射をします、とにこやかに話しかけてきた。 「え、注射するの?」「ええ、しますよ」「いや、ちょっと待って。注射はしたくないなあ」「アレルギーでもあるんですか?」「いやそうじゃないけど、痛いじゃん」「もちろん少しはチクッとしますけど、でもより正確な写真を撮るためですから」「いや、やっぱり嫌だなあ。別に正確な写真なんて撮れなくてもいいから、注射だけは勘弁してよ」 こんな感じでゴネまくって、結局注射は勘弁してもらった。ついさっき注射針を差し込まれたばかりだというのに、また注射なんかされたりしたら、たまったもんじゃない。若い看護婦さんが「いい歳をして情けない」みたいな笑いをちらと浮かべたが、いくら笑われようと嫌なものは嫌なのだ。 しかし、ゴネてみるもんだな。まさかオッケーされるとは思わなかった。この調子で来年からは採血も拒否してみよう。健康診断を受けて気分が悪くなったんじゃ、シャレにもならん。 04/02/21 サッカーのワールドカップ一次予選が始まったらしい。 おかしい、どうしてジーコ監督は自分を日本代表メンバーに招集してくれないのだ。毎日必死にバナナシュートの練習を重ねている自分の立場はどうなる。日の丸にかける熱い思いは誰にも負けないつもりだ。この熱意と努力を是非とも認めてもらいたい。 それにしても、ついこの間日韓共催のワールドカップが終わったばかりだというのに、もう予選が始まってしまった。もう少し落ち着いたらどうかね。なんだか年がら年中ワールドカップみたいな感じで、サッカーに興味のない自分としては、ちょっとだけ辟易してしまう。 自分がサッカーに興味がないのには、もちろん理由がある。 まず、あまりにも得点シーンが少ないこと。90分間のうち、敵味方あわせてわずか2〜3回しか得点シーンがないというのは、あまりにも退屈だ。そんなに退屈なゲームを見通すことができるほど、自分は辛抱強い人間ではない。 それから、手を使ってはいけないというルールにも、見ていて非常にストレスを感じる。 レスリングのグレコローマンスタイル(相手の下半身を攻撃してはいけないスタイル)の試合を見るときと同じストレスを感じてしまう。手でも足でも頭でも、使えるものは何でも使えばいいのだ。 そして、これが一番の理由なのだが、選手がチャラチャラしていることだ。ロン毛だったり茶髪だったり金髪だったりと、およそスポーツマンらしくないその軟弱な外見にはまったく共感できない。スポーツマンならスポーツマンらしく、スカッとスポーツ刈りにしたらどうだ。髪の毛を伸ばしたり染めたりしているヒマがあったら、己の技術を磨くことに専念してもらいたい。 おっと、日本全国のサッカーファンを敵に回すようなことを書いてしまった。今の自分にはこんなことを書いているヒマなんてないのだ。必殺のバナナシュートにさらに磨きをかけねば。 平山相太との黄金のツートップで、今度のワールドカップはいただきだ。 04/02/14 今日は一気に春本番の暖かさだった。春一番も吹いたし、いよいよ本格的な春の到来を感じさせる。しかし、まだまだ油断はできない。また寒くなったり暖かくなったりを繰り返しながら、少しずつ着実に春本番へと近づいて行くのだ。「三寒四温」のこの時期、風邪には気をつけたい。 春本番はまだ先のことだが、受験シーズンはまさに今が本番だ。受験生はそれこそ寝る間も惜しんで勉強に精を出していることだろう。最近では「四当五落」という言葉はあまり耳にしなくなったが、やはりたっぷり8時間も睡眠を取っていては、志望校合格はおぼつかない。きっちりと夜食を摂ってガシガシ勉強するのが正しい受験生のあり方だ。自分が受験生の頃は、夜食によくインスタントラーメンを食べていた。勉強に疲れて食べるインスタントラーメンはなんとも美味かった。まさに「五臓六腑」に染み渡る美味さだった。 ちなみに、五臓とは、心、肝、脾、肺、腎のことを指し、六腑とは、胆、胃、大腸、小腸、膀胱、三焦のことを指すらしい。そうか、あのインスタントラーメンは膀胱にまで染み渡っていたのか。そう考えると、ちょっとだけ嫌だな。 夜食を摂った後に気合を入れなおして勉強を続けるのだが、満腹になった状態では思わずうつらうつらしてしまい、まったくと言っていいほど頭には入らない。翌日になって昨夜の復習をすると、ほとんどきれいに忘れてしまっている。深くため息をつきながら、三歩進んで二歩下がる、いや「七転び八起き」の精神で頑張れ、と自分を励ますのである。 しかし、この「七転び八起き」という言葉には、ずっと納得できないままでいる。七回転んだら、起き上がるのはきっちりと七回でなければならない。これが「七転び六起き」ならば理解できる。七回目に転んだのを最後に息を引き取ったってことだ。しかし、七回転んで八回起き上がるというのはどう考えても物理的に無理があるのではないか。 なんてことを考え始めると、もう勉強など手につかなくなる。まさに七転八倒しながら悩んでしまうのだ。良い子の受験生のみんなは、くれぐれもこんなくだらないことに頭を悩ませてはいけない。桜咲くその日を信じて頑張れ。 04/02/07 部屋の柱の角に足の小指をしたたかにぶつけた。思わず涙してしまった。 この歳になると、泣くということが極端に少なくなる。いや、テレビのドキュメンタリー番組を観たり、小説を読んで涙することは多々あるのだが、実生活において泣くことはめったになくなった。考えてみれば当然のことではある。この歳でいまだに泣き虫だったら気持ち悪い。 しかし、子供の頃は本当に泣き虫だった。親に怒られては泣き、先生に注意されては泣き、友達にからかわれては泣きで、まさに涙の乾くひまもなかったくらいに泣いていた気がする。そんな自分もさすがに思春期を迎える頃からは、人前で涙を見せるのは恥ずかしいことだと思うようになり、意識して涙を見せないようになった。 で、改めて考えてみた。この前泣いたのは、はたしていつのことだっただろうか。 20歳の頃から7年間つきあった女子にふられたときには、ちょっとだけ泣いた。いい歳をしてそんなことくらいで泣くのは女々しい、なんて笑うことなかれ。大抵の男子はこんなもんだ。自分に言わせれば、恋愛経験を通して泣いたことのない男子なんて、人間としての自然な感情が欠落していると思うのだ。もちろん、四六時中泣きっぱなしというのも逆にどうかと思うが。 それからさらに遡って考えてみたら、高校3年の時に受けた共通一次試験(現在のセンター試験)のことを思い出した。初日の試験を終えて会場を出るときに、解答速報を受け取ったのが良くなかった。宿に帰って自己採点をした結果、数学が16点だったのだ。しかも200点満点の16点。その日の夜は、同宿の友人たちに気づかれないように、布団に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。あのときは本当に自分が情けなくて、悔しかった。 まあ、たまには思い切り泣くのも悪くはない。泣くという行為には、悔しい思いや悲しい思いを浄化してくれる作用がある。なんて、こんなことを書いていたら、なんだか久しぶりに泣きたくなってきた。いや、別に悲しいことや悔しいことがあったってわけではないのだけれど。 柱の角に小指をぶつけるのは痛いから、とりあえず鼻毛でも抜いてみるか。 04/01/30 それにしても、どうしたもんだろう、古賀議員の学歴詐称問題は。 自分は最初にこの問題が報道されたときには、「弁護士を通じて卒業手続を取ったはず」という、イケメン議員の古賀氏の言葉を信じていた。国会議員になるくらいの人物だから、ペパーダインだかペパーミントだか知らないが、ばれたときの議員辞職というリスクを犯してまでも、そんな貧乏臭い大学卒業の経歴を詐称するなんていうことはするはずがないと思っていた。 しかし、マスコミの報道を見る限りでは、イケメン古賀氏に対する現在の自分の心証は、限りなく灰色に近い「クロ」に変わった。必死に弁解をすればするほど、逆にますます怪しくなる。イケメンだけに(しかし、この”イケメン”っていう表現もどうなのよ?)、嘘をついているという罪悪感が顔にもろに出てしまって、なんだかやるせない。たったひとつの無邪気な嘘が、いつの間にか引っ込みのつかない数多くの嘘にまで成長してしまうのは、誰もが経験していることだろう。 ってことでさ、そんなに責めるなよ、マスコミ諸君。胸に手を当てて考えてみれば、自分にだって身に覚えのあることだろ? ここぞとばかりに鬼の首を取ったような顔をして報道するなよ。まあ、一番悪いのは誰あろう古賀議員本人なのは間違いないのだけれど。 政治家なんてものは、中途半端な学歴に頼ってはいけない。悪人面して堂々と「小学校しか卒業してません」なんていう人物の方がかえって迫力がある。田中角栄がそのいい例だ。甲高い声で、「まあそのお」とか言いながら、偉そうに片手を挙げるだけで、有権者は熱狂するのだ。現在の政治家に求められるものは、さわやかなイケメンではなく、貧乏臭い学歴でもなく、そういった要素をすべて否定し得るだけのカリスマ性だと思う。 そういう意味では、イラク派遣を指揮する石破防衛庁長官はいい顔をしている。まさに現代のカリスマだ。あの感情を押し殺した表情で記者会見をこなす石破氏がたまらなく素敵だ。自分の理想とする政治家像に限りなく近いものがある。それに比べて、ペパーミント大学卒業なんていう、よくわからない学歴を気にするイケメンの古賀氏は、やっぱり政治家としては失格だ。 ってことで、頑張れ、石破長官。ちょっとだけ表情が怖いけど、自分は応援してるぞ。 04/01/23 会社のプリンターが故障して、メーカーの保守サービスに電話したときのこと。 「それでは会社の住所を確認させていただきます。さいたま市桜区XX-XX-XXでよろしかったでしょうか?」「電話番号を確認させていただきます。XXX-XXX-XXXXでよろしかったでしょうか?」 ええ、と返事をしながら、激しく違和感を覚えてしまった。なぜ過去形で訊く? なぜ普通に「よろしいでしょうか」と訊かない? このときに限ったことではなく、どうも最近この「よろしかったでしょうか?」という過去形質問が流行しているようだ。喫茶店やレストランでも、この表現にでくわすことがよくある。「ご注文を確認させていただきます。和風ハンバーグとライスでよろしかったでしょうか?」ってな感じだ。自分でもその理由はよくわからないのだが、こう訊かれるとなぜか気になってしかたがない。 まあ、客が注文したものを改めて確認するという意味で、過去形で訊くというのは文法的には間違っていないのかも知れない。しかし、次の場合はどうだろう。料理を食べ終わった空の皿を指しながら店員さんがこう訊ねた場合だ。 「こちら、お下げしてもよろしかったでしょうか?」 自分は下げてくれと頼んだ覚えはないぞ。なのに「よろしかったでしょうか」とはどういうことだ。これは明らかに言葉の使い方を間違っているだろう。まったく、おかしな言い方がはやるもんだ。ひょっとして、「確認する際には”よろしかったでしょうか”と訊ねるべし」というマニュアルが存在するのだろうか。 こんな些細なことにいちいち反応してしまう自分もどうかと思うが、気になるものはやっぱり気になる。こんなことを気にする自分って、人間が小さいのか? 広大な砂漠を這うアリンコくらいに小さな人間なのか? きっとそうなんだろうな。あえて否定はしない。TVチャンピオンで「小さい人間選手権」なんて企画があったら是非とも参加してみたい。きっと、かなりいいところまで行くと思う。なんてね、自分だってもっとおおらかな人間になりたいとは思っているんだが。 相変わらず寒い日が続くので、いいネタが浮かばない。とりあえず、今回のネタはこんな感じでよろしかったでしょうか? 04/01/16 それにしても寒い。冬は寒いのが当たり前とは言っても、寒いものはやっぱり寒い。こうも寒いと、覚書のネタも良いものが思い浮かばない。 「こんなの、ただの日記みたいなもんだから、適当に書いてるだけなんだろ?」なんていう無責任な感想を、知り合いから言われてしまうことがあるのだが、もちろんそんなことはない。自分なりにネタを作り込んで、どうしたら少しでも読む人に興味を持ってもらえるか、毎回頭を悩ませて書いているのである。 単純に、日々の出来事を書き連ねるだけなら簡単なことだ。「今日はとても寒かったので、マフラーをして出かけました。やっぱりマフラーをすると暖かいです。はやくマフラーをしなくてもいいくらいに暖かくなるといいのにな♪」なんてことを書いていればいいのだ。しかし、こんな文章で読む人の興味を引くことができるとは思えない。 「今日はとても寒かったので、マフラーをして出かけました。途中でマフラーが電柱にからまってしまって、危うく息が止まりそうになりました。まったく、電柱のやつめ。ぷんぷん」これならば、ちょっとは面白い。だが、嘘を書いてはいかん。多少の誇張ならば許されるが、全くの嘘というのは、読む方としても白けてしまうものだ。 「今日はとても寒かったので、マフラーをして出かけました。黒のマフラーに鼻水がたれて、黒と白のツートンカラーになりました。今年の流行色はこれで決まりだね♪」これくらいならば許容範囲内だろう。 マフラーにたらしてしまった一滴の鼻水をもネタにしてしまうくらいの姿勢がないと、こういうエッセイを書き続けることはできない。忙中閑あり、寒中ネタありだ。いや、すまん。今回は本当に寒くていいネタが浮かばなかった。 はやくマフラーをしなくてもいいくらいに暖かくなるといいのにな♪ ってなオチくらいしか思い浮かばない。本当に寒い。 04/01/11 昨年の暮れから今年の年明けにかけて、衝撃的なニュースが日本列島を襲った。もちろん曙の1ラウンドKO負けのニュースではない。アメリカでのBSE騒動のニュースだ。いや、あのヒキガエルがうつぶせになったようなKOシーンも、それなりに衝撃的だったが。 肉よりは魚好きな自分にとっては、アメリカ産の牛肉が食べられなくなったところで何の不便もないのだが、たったひとつだけ例外がある。そう、それは自分がこよなく愛する吉野家の牛丼が食べられなくなってしまうかも知れないということだ。100%アメリカ産の牛肉を使用している吉野家にとって、今回の狂牛病騒動は、まさに死刑宣告にも等しい大打撃である。日々の食生活の大部分を吉野家の牛丼に頼っている自分としても、同じく大打撃である。 牛丼のない吉野家なんて、クリープを入れないコーヒーどころか、麺の入っていないラーメン以上に考えられないことだ。苦肉の策として、朝定食を24時間販売したり、カレー丼などの新メニューを投入したりと、吉野家は少しでも牛丼の穴を埋めようと躍起になっているようだが、どう頑張ったところで大幅な売上ダウンは必至だろう。やっぱり牛丼あっての吉野家だ。わざわざカレー丼を吉野家で食べようという気にはならない。 しかし、だからと言って、このまま吉野家のピンチを見過ごしていいものだろうか。今まで散々お世話になってきた吉野家に対して、「牛丼がないなら行かない」という態度ではあまりにも薄情過ぎはしないか。「吉野家で牛丼が食べられないなら、松屋とかすき家で食べればいいし」なんていうのも、あまりにも義理を欠いた行為だ。そんな行為は、たとえ他人が許しても自分自身の良心が許さない。普段は自分勝手にちゃらんぽらんに生きている自分だが、こういうところだけは妙に義理堅いのだ。 寒い真冬でも、暑い真夏でも、吉野家はいつも自分のそばにいてくれた。嬉しいときも悲しいときも、吉野家はいつも自分のそばにいてくれた。吉野家のおかげで自分は今まで頑張ってくることができたのだ。たとえ他の人がみんなそっぽを向いても、自分だけは変わらずに応援し続けるつもりだ。牛丼復活のその日を信じて。 頑張れ、吉野家。 2003年の覚書 |