19/05/12

自分にとっての「平成」という時代について考えてみる

今回の平成から令和への代替わりは、日本全国10連休という前代未聞の大型連休となって大いに盛り上がったようだ。自分は、実家に帰省して農作業を手伝いながら、令和へのカウントダウンの盛り上がりをテレビで見ていたのだが、国民一丸となった盛り上がりっぷりには、「これは、一部でささやかれているような景気後退局面を吹き飛ばすくらいの経済効果があるんじゃないだろうか」と、少しだけ期待させるものがあった。



ということで、自分にとって「平成」とはどういう時代だったのかについて考えてみたい。実は、自分にとっての平成という時代は、とてもわかりやすく区切ることができる。なぜならば、平成元年に新卒として入社したからだ。つまり、自分にとっての平成という時代は、「社会人になって、人間的に大きく成長した時代」という一言でまとめることができる。

いや、「社会人になった」というのは間違いのない事実だけれど、「人間的に大きく成長した」というのは大きな間違いだ。学生の頃といまを比べてみても、特に人間的に大きく成長したと思えるようなところはない。むしろ、人間的に劣化しているのではないかと思えるくらいで、本当に何一つ成長していないというのが正直な実感だ。

自分は自己評価が低い人間なので、このように後ろ向きな考え方をするのは自分だけなのかなと思ったりもするけれど、いまはすっかり偉くなった同期入社の友人とたまに飲んだりすると、やっぱり自分と同じように感じているらしく、「肩書だけは偉くなったけど、中身は全然だよ」なんて言ったりする。もちろん謙遜も含まれているだろうけれど、あながちすべてが社交辞令だという感じでもない。

ただ、自分の場合は本当に救いようがないくらいに、人間的な成長がないと思う。そもそも、「一生ラクして暮らせるならそれが一番」だと思っているから、ついついラクな方向へと流されてしまう。「人間的に成長するためには、積極的に苦労して経験を積む必要がある」なんていう考え方についても、とりあえず理解はできるけれど、「人間的に成長しなくてもいいから、ラクな方がいいや」なんて思ってしまう。

こういう考え方で仕事をしていれば当然出世するはずもなく、社会人になってからちょうど30年が経過したにもかかわらず、これまでに一度も「長」が付く役職に就いたことがないのだ。ついでに言えば、「副」とか「代理」みたいな肩書の役職に就いたこともない。自分にとってのキャリアハイは、34歳でフリーエンジニアから転職したIT企業での「主任」という役職だ。

この会社では主任の上がマネージャーになっていて、このマネージャーという役職が一般的な「課長」というポジションにあたる。この会社で頑張っていれば、もしかしたら百分の一くらいの確率でいまごろはマネージャーになっていたかもしれないけれど、とにかく社内の雰囲気が自分に合わなくて、会社に通うのが苦痛だった。アパートから駅までの道のりで、とにかく会社に行きたくないあまり、道端で吐いたことも何度かある。結局、この会社は1年半くらいで辞めてしまった。

ただ、これほど仕事のできない自分でも、新卒のときにそれなりに優良な企業に就職できたのは、バブル景気に沸いた時代のおかげだと思う。バブルがはじけてからわずか数年後には就職氷河期が訪れたわけだから、それを考えても自分はラッキーだったと思う。もし自分の大学卒業が就職氷河期と重なっていたら、いまごろこうして呑気に覚書なんて書いていられないかもしれない。

新卒でそれなりの優良企業に就職して多少のスキルを習得したおかげで、その後の数年間はフリーのシステムエンジニアとしてメシを食うことができた。自分は、新卒で就職した会社から何度も転職を繰り返していまに至るわけだけれど、何度も転職できるというのは、考え方によってはけっこう幸せなことで、最初の就職でつまずいた就職氷河期の人たちからすれば、生まれた時期が少し違うだけでなんて不公平なんだろうと思うかもしれない。

ということで、これまでの自分の人生を改めて振り返ってみると、怖いくらいに日本という国の姿に一致しているなと思う。

昭和四十二年生まれの自分は、将来に対して何の不安も抱くことなく、希望いっぱいに成長した。いまから考えると、自分にとっての「昭和」という時代は、本当に異常なくらいに何もかもがキラキラしていた時代だったと思う。まさに自分にとっての高度成長期だった。日本にとっても、バブル景気への一本道を猛烈に進んでいった時代だったと思う。

それが平成になると、バブル経済の崩壊と消費税の導入というダブルパンチで、一気に経済に暗い影が差した。新卒で入社した自分も、毎日それなりに楽しく仕事をしていたけれど、システムエンジニアという仕事が自分には向いていないということに気付いてからは、ジョブホッピングをするようになってしまう。しかし、人間的な能力としてはまったく向上していないわけで、このあたりは、バブル崩壊後に経済的に低迷する日本の姿とよく似ている。

普通に考えれば、令和の時代は30年くらいは続くだろうけれど、自分にとっての令和という時代は、体力や知力など、いろいろなことが右肩下がりに落ちていく時代になるだろうと思う。おそらくそれは、少子化という問題を抱えている日本にとっても同じことだろう。勢いのいい時代に生まれて、その勢いがすっかりなくなった頃に死ぬことになるというのも、ある意味では幸せなことなのかもしれない。



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